《父親は病院ですき焼き、「ワインを持ってきてくれ」と…》両親の介護を約9年半行った阿川佐和子さん「後悔はない」 理想の介護は“たくさんの手を借りること”
日本は超高齢化社会を迎え、親の介護は身近なものになっている。エッセイストの阿川佐和子さん(71歳)も介護を経験した1人。父・阿川弘之さんの最期の瞬間には間に合わなかったものの前日まで言葉を交わし、母・みよさんが息を引き取るまで見守った。そんな阿川さんが両親の9年半の介護を振り返りつつ、理想の介護を語った。
コロナ禍でも、病院で母を看取ることができ感謝
――母親が亡くなったのは2020年の5月。コロナ禍のお別れだったそうですね。
阿川さん:母がよみうりランド慶友病院のショートステイに入っている間に緊急事態宣言が始まって、退院させられず、面会もままならなくなったんです。するとアメリカに住んでいる弟が「リモート面会はできないのか」と言い出しまして。コロナ禍で病院も院内感染だとかでピリピリしてるときに、リモート面会のリクエストなんて申し訳ないでしょ、と弟と言い争いになったんです。
弟は「確認したっていいじゃないか」と病院に勝手に電話をしたんです。すると病院側は「ほかにも面会できないご家族もいるし、一理ありますね」ということでパソコンまで用意してくれて、リモート面会ができるようになりました。画面越しですが、久々に動いている母に会えて嬉しかったです。弟には「あんたが正しかった」って謝りました(笑い)。
そのうちに5月に体力を落として危篤状態になり、1番下の弟と私が病院に行きました。呼吸が止まったかなって思ったら復活して、という母の姿を、夕方4時ぐらいから夜11時ぐらいまで見守っていました。
「ご臨終です」と言われた時、泣くかと思ったけれど涙は出ませんでした。それは、きちんと最期を見届けたからだと思います。見送るって大事なことなんだなと実感しました。5年前に父が亡くなった時は仕事で最期に間に合わず、そのショックは大きかった。病室に駆けつけて、握った父の手はまだ温かかったんです。
母とはこれ以上ないお別れができたと思います。病院にも感謝しています。コロナ禍ですから、いくら危篤だからといって、面会を断られてもおかしくない時期でした。
誤嚥性肺炎後も好きなものを食べる父。「好きなものは喉を通る」と医師の名言
――父親の介護で印象深い思い出はありますか?
阿川さん:父のほうが先ですが、同じくよみうりランド慶友病院に入院していました。そこは食事の持ち込みができたんです。父は足腰は弱っていたけれど、食べることが好きで食べる意欲はあったんです。それで、父に呼ばれて病院に行ったら「うなぎが食いたい」って。うなぎは小骨もあるし、また誤嚥性肺炎になる可能性もあるから無理だと思ったんです。
私は病院の創設者の大塚(宣夫)先生に「ダメだ」と太鼓判を押してもらうつもりで確認しに行ったら、「いいんじゃないんですか」って先生がおっしゃる。「好きなものは喉を通るんですよ」って。食べたいという意欲があれば、自分でも気をつけると。それで「もし万が一があったら我々にお任せください」って言ってくださって感動しました。
それで、父にリクエストの料理を持って行くのですが、わがままなので大変でした。仕事中なのに電話がかかってきて、「チーズとワインを持ってきてくれ」とか。この病院はお酒も飲めるんです。それから「温かいものが食べたい」と言う。確かに熱々の病院食は出ませんからね。病院側に電子レンジを入れてもいいかと聞いたら、電子レンジを用意してくれました。
これで温かい料理を食べられるなと思ったら、冗談じゃない、日本酒を燗にするために電子レンジを使っていました(苦笑)。それから電磁調理器に鍋を乗せて、すき焼きまで作っていたんです。材料を用意するのは私ですけどね。他の部屋ににおいが広がって看護師さんに怒られるかなと思ったら、「あら、今日はすき焼きですか」って寛大で。それに味をしめた父は、2、3週間に1回はすき焼きをしていました。あれこれ用意する側は大変でしたけれどね。
食べたい気持ちが残っている状態で死にたい
――ご両親の介護に関して、こうしておけばよかったという後悔はありますか?
阿川さん:後悔はありません。介護のために仕事を減らして親の介護に専念しようと思った時期もありましたけど、そうしたら自分が壊れるなと思ったので。きょうだいや知人と手分けして介護をしたという意味ではだいぶサボったし、サボることが大事だっていうことも学びました。
完璧にやらなきゃいけないと思ってる人から見たら、私はどれほど怠けていただろうっていう気持ちがあるから、私の介護は完璧だったなんて思っていません。だけど、母が認知症になってから、母と一緒に笑うことが多かった。それは恵まれていたなと思っています。
――阿川さんが思う理想の介護を教えてください。
阿川さん:どこかに負担が集中しないようにする社会の基盤ができたらいいだろうなと思います。それは隣人でもいいし商店街の人でもいいし。日本人って真面目だから、親の介護をしないと人でなしと思われるような、施設に入れただけで放棄したって言われるような、そんな世間体みたいなものを今の時代でも抱えている人がいて。
つまり、血の繋がった人間がやらなきゃいけないっていう思い込みは、解放する方がいいんじゃないかなって。肉親でなくても、近所の人でも介護や医療関係の人でもいいので、手を借りられる人が多ければ介護って楽になるだろうし、悲壮なことにはならないんじゃないかって思います。1人で抱え込んでいいことはありません。
――ご両親の介護経験を経て、ご自身の終活はされていますか?
阿川さん:なにも準備していません。場当たり的な人間ですから。ダンナさんとも「どうする?」って言いながら寝ちゃう(笑い)。弟には遺言書を書けって言われてるんですけどね。私には子供がいないし、そういうものも必要なんでしょうけれど。
ただ、高齢者ビジネスが進んできているので、いずれ心地のいい死に場所が見つかるだろうと期待しています。父と母が最期を迎えたよみうりランド慶友病院の大塚先生が、イタリア人は食べ物に興味がなくなったら、死ぬ方向に向かっているとおっしゃったのね。だから、食べたい気持ちが最期まで残っている状態で死にたいかな。
◆作家、エッセイスト・阿川佐和子
あがわ・さわこ/1953年11月1日、東京都生まれ。報道番組のキャスターなどを務めた後に渡米。帰国後、エッセイスト、作家、インタビュアーなど幅広く活躍。99年に檀ふみ氏との往復エッセイ『ああ言えばこう食う』で講談社エッセイ賞、2000年『ウメ子』で坪田譲治文学賞、08年『婚約のあとで』で島清恋愛文学賞を受賞。近著に『だいたいしあわせ』がある。2012年から父で作家の阿川弘之さんの介護が始まり、2020年に認知症の母親が亡くなるまで9年間介護を行った。。
撮影/小山志麻 取材・文/小山内麗香