《ステージ3A大腸がん闘病中も母の介護》作家・荻野アンナさんが語る「サバイバルである介護生活を生き残るコツ」、心身疲れた時は温泉に一泊
自身も大腸がんや介護うつになりながらも、2000年から15年間も親の介護をし続けた芥川賞作家で慶応大学名誉教授の荻野アンナさん(68歳)。闘病をしながらの壮絶な介護や、「サバイバル」である介護生活を生き残るポイントを聞いた。
大腸がんだと告げられて、これでやっと休めると安堵した
――ご両親の介護の最中、長年連れ添ったパートナーが食道がんで亡くなるのを看取り、そして2012年には荻野さんご自身が大腸がんになってしまいます。
荻野さん:私が56歳のときです。父は他界していたのですが、母の介護は継続していました。大腸がんの手術ということで、どうしても1週間は入院しなければいけない。当時の母はヘルパーを拒否していたので、1人にしておけないんですね。
母は腰椎すべり症で、気管支炎もあり、肺気腫にもなりかかっていました。自律神経失調症で血圧の乱高下もあって、考えてみたら入院してもいいだけの病名を持っているわけです。だったら一緒に入院しちゃえばいいんだ、とひらめきまして。理解のある病院だったので、私の病室と、1つ置いた隣が母の病室になりました。
――その入院期間中も大変だったそうですね。
荻野さん:開腹手術の翌日から、「アンナ、アンナ!」と呼び出されました。母は喫煙者で、こっそり病院の外に出て一服しないとダメな人でした。病院の近くに運河が流れていて、そこで皆さん、煙草を吸うんですね。お見舞いに来てくれる人がいたら母を車いすで運んでもらうのですが、見舞い人が来ない日は、私が点滴棒を手に持ったまま車いすを押して、母に煙草を吸わせに行ってきました。
術後なので私は普段よりも力が入りませんし、病院の外の道はデコボコしていますから、間違えて車いすから手を離すと事故になりかねないので怖かったです。お腹の痛みよりもそちらが大きかったですね。
――母親の介護だけでも大変なのに、大腸がんだと告げられるなんて絶望しますよね。
荻野さん:いいえ、これでやっと休めると思いました。がんの恐怖もありませんでした。パートナーの彼を食道がんで亡くしていたので、心の準備ができていたこともあるでしょうね。とにかく、休む理由ができたという気持ちでした。
がんが見つかった時にはリンパに飛んでいたので、ステージ3A期です。3Aだと3年生存率が7割なんですね。その時に、転移しないほうに賭けてみようって思えたんです。それで再発したとしても、再発がわかるまでは明るく暮らせますし、今はがんと共存する方向にいっていますから、その時に考えればいい。
数分の距離が歩けないほど不調でも、タクシーを使って母親の介護に向かう
――退院してからも、治療を受けながら母親の介護をする生活に。
荻野さん:リンパに転移がなければ切っただけで済んだはずなんですけど、転移があったので化学療法をすることになりました。手術から1か月経って、ようやく体力が戻ったところに抗がん剤。最初のうちはよかったんですけど、だんだん副作用がきつくなってきました。
大腸がんの抗がん剤というのは、髪は抜けないんですけど、だるさがひどくて。手先足先が痺れてお箸も持ちにくくなりします。私は小説の中で「石のドラえもんが頭にのってる」という表現をしたんですけど、だるさの1番ひどい時はそういう状態でした。
私は彼のいたマンションに住んでいました。母の家とは歩いて数分なんですけど、体調が悪い時にはその距離が歩けなくて、母の介護をするためにタクシーで向かうこともありました。
母の介護で大変だったことは色々とあるんですけど、入院中のベッドの居心地が悪いようなんですね。自分の状態が良くないってことを表したいけど、言葉にならないので、ベッドを上げて、下げてというのをのべつ頼むようになりました。そこにおしっこも入ってきて、1日中、上げて下げておしっこ、上げて下げておしっこ、っていうのが果てしなく続いた頃は参っちゃいましたね。
――父親の最期はホームでしたが、母親は自宅を希望されていたとのこと。
荻野さん:本人たちの希望で、母は絶対に家がいいと言っていました。画家の母は私を身ごもってから家を建てたのですが、その家を1972年に大改築して、母の好きな木材を使って、好きな壁の色にして、庭も抽象模様のようにして、家自体が作品になってるんですね。ですから逆に言うと、介護が必要になっても、デザイン的に嫌だからってバリアフリーにできなかったんですけども。
母にとってそういう大事な家ですから、ホームに入りたがらない。では、どうしたかっていうと、家を病院にしたんです。ヘルパーさんは24時間常駐で、週1回の訪問入浴、訪問介護もありました。ただ可哀想だったのが、退院して自宅に帰ってきても、「アンナ帰りたい」って言うんです。本当は畳に掘りごたつが好きだったのに、病院と同じ介護ベッドですから。でも、もう畳で起き上がることは不可能なので、仕方なかったですね。
介護はサバイバル、自分の時間を確保することが生き残るポイント
――父親の介護に関してはやり切ったと話していましたが、母親はいかがでしょうか。
荻野さん:母に関しては、もっとできたのにという後悔が大きいです。私はパートナーの家を生活の軸にしてしまったので、同じ屋根の下で暮らし、傍にいてあげればよかったなと思います。母は1月13日に亡くなるんですけども、母は年明けに風邪をひいて、しばらく病院に行けなかったんです。病院に連れて行った日、別れ際に母親が「アンナ」と私の手を取ったのを覚えています。
その日の夜、急変して亡くなりました。ですから、父の時みたいに看取ることができなかったんです。母に関しては何かと後悔が残っています。
――父親、母親、パートナーの3人を、15年にわたって介護されていた荻野さんから、介護をされている方にメッセージをお願いします。
荻野さん:介護はサバイバルです。頑張りすぎて自分が倒れちゃうと、親のことができなくなって共倒れになってしまいます。生き延びるためには、なんとしてでも自分の時間を確保することが大事です。
私も心身ともにどうしようもなくなると、温泉に1泊して気持ちを切り替えました。あと例えば、介護の達人と言われる人がいて、彼女は寝たきりのお母さんの介護をなさっていたんですけども、ヘルパーさんが来てくださってる間に映画館に行くんだそうです。
映画は長いので1回に見ることはできないのですが、同じ映画のチケットを2枚買って、2回に分けて観ていた。そういう工夫で、自分のための時間をキープすることが大切です。そういうことを自分に許すことで、みんながサーバイブできるんじゃないかと思います。
◆作家・荻野アンナ
おぎの・あんな/1956年11月7日、神奈川県生まれ。フランス文学研究の傍ら作家活動を始め、1991年『背負い水』で芥川賞受賞。2007年フランス教育功労賞シュヴァリエ叙勲。2002年より慶應義塾大学文学部教授、2022年に定年退任し名誉教授。2024年神奈川近代文学館館長に就任。大道芸や落語に強い関心があり、2005年より11代金原亭馬生師匠に入門、高座名は金原亭駒ん奈(二つ目)。
撮影/小山志麻 取材・文/小山内麗香