【連載エッセイ】介護という旅の途中に「第37回 93才になった母」
写真家でハーバリストとしても活躍する飯田裕子さんによるフォトエッセイ。父亡き後に認知症を発症した母と千葉・勝浦で暮らす飯田さんが、誕生日を迎え93才になった母との日々を美しい写真とともに綴ります。
母の誕生日に思うこと
母は、3月4日に93歳のお誕生日を迎えた。
「生きられるだけは生きよう草萌ゆる」(山頭火)
最近の母の姿、一挙一動、眼差しの奥に宿る独特の純粋な光は、まさにこの歌のようだ。
生きることを一生懸命やっているという感じに尽きる。でも、そんな母を想いながらも、私の口からため息が漏れることには変わりない。
それでもなお、その姿に勉強させてもらっているのだと感じている。
勝浦の雛祭りイベントへ
勝浦では今年、4年ぶりに「ビッグ雛祭り」が開催され、街はまるで原宿の竹下通り並みに人で溢れた。
新型コロナウイルスが蔓延し始めた2019年、真っ先に患者を受け入れた勝浦市だったが、ようやく4年の歳月が経ち本当の春が訪れつつある。雛祭りの翌日が誕生の母を連れて、最終日に街へ出向いた。
冬の間の母は、施設の送り迎え以外、外出に私が誘っても出かけるのを億劫がった。でも、誕生日と勝浦の街を上げてのビッグイベントが同じ時期という偶然は、母が人生最後に辿り着いた土地でのおめでたい巡り合わせのようで、私は母をどうしても連れ出したくなったのだ。
杖を付かずに歩けるとはいえ、93歳。なるべく車の中からお雛様を見ることができるように計らった。ちょうど信号待ちのタイミングで、交差点辻の最大の雛壇を車の中から眺めることができた。
「ああ、凄いわ!お雛様があんなにたくさん、準備はきっと大変だろうねえ」と母。
そしていよいよ人で溢れた街へ向かうと、勝浦で友人になったA子さんが朝市の店仕舞いをしていた。「ユウコさ~ん」と手を振る方へ車を寄せてみると、道沿いの民家の前に椅子に座った高齢の女性がいる。A子さんがお世話になっている人らしい。お名前は「テルちゃん」。
しばらく立ち話をしているうちに、あら不思議。テルちゃんは母と誕生日が同じ3月4日だと判明。さらにA子さんは3月3日の雛祭り生まれだと言うし、まるで勝浦の3人官女である。早速3人で記念撮影し、お喋りに花が咲く。
母は久しぶりに街へ出て嬉しそうだ。
「テレビでもこの祭りは見たけどね、やっぱり本物を見ると違うねえ」と涙ぐむ。
「え?テレビでやってた勝浦の雛祭りを覚えていたんだ」と母の記憶力に驚く。
雛壇のハイライトは遠見岬(とみさき)神社の石段に並ぶお雛様。春の光を受けて微笑むお雛様の数に圧倒された。
その足で太平洋が一望できる官軍塚へ。河津桜は満開で、春を感じる場所で潮風を受けると、心の中に明るい光が満ちてくるような気分だった。
色々な迷いもあった。コロナ感染もした。でも、こうして今ここで母とこの時間を共に過ごせる事を本当にありがたく思った。
誕生日記念の撮影
そうだ、「元タイピストだったお母様へ」と友人が譲ってくれた旧式のタイプライターを使う母を誕生日記念写真として撮ろう!
母に久しぶりにメイクをし、テーブルにタイプライターを置いて、ハイ、ポーズ!真剣な顔でタイプを見る母には、ありし日の働く姿を思い出させるものがあった。
しかし、「あれ、全然打てないわ」と母のタイプライターへの興味は薄くなっていた。
「毎日すごい量のタイプ打っていたわ。でも英国の会社だったから昼休みが2時間もあってね」と回想はしつつも、もっぱら毎日の編み物に手が動く。
ケアマネさんとの会話
こうして「雛祭り」イベントも終わり、毎月恒例のケアマネさんの訪問日がやってきた。
食卓でもあるテーブルで、同じケアマネさんといつも面談をしているのだが、憶えているのかいないのか、なぜケアマネさんが来ているのか、わかっていないのかもしれない。
いつものように、毛糸で編んだものを見せながら会話は進む。そして、ちゃんと筋道の通った話をする。
「昔はね、着られなくなった毛糸のセーターはほどいてね、沸かした湯に糸をつけてクセを無くしてから乾かして、再利用したのよ。戦時中には毛糸も手に入らなくて、部屋も今より寒かったからね、母は毛糸をとても大切にしていたわね。靴下やセーターは編み直して何度も使ったものだった」と母。
ケアマネさんは30代のママさんで、「へえ、それはとってもエコですね~」と優しい口調で相槌を打ってくれる。
テレビで雪の話題が出れば「父は呉服の商社にいたからよく新潟の小千谷に行っててね、着物の上に黒くて重いコートを着て屋根より積もった雪の上を雪下駄で歩いていた写真を見せてくれたっけ」、さらに、プーチンの顔が映れば「あなた、本当の指導者ならば自分で戦争の最前線に行きなさい!若い命を死なせてどうするのか?!ダメだダメだ戦争なんていい事何もない」と怒った口調で話しかける。
ニュースで映ったロシアのうら若き女性が看板に書いた「愛しい人よ、無事に帰ってきてください」と言うシーンを見て母は「私が女学校の時は毎日くらい出兵の若者を日の丸振って見送ってたけど、死んで帰ってきて泣いていた女性がほとんどだったのよ」と語る。
戦争の生き証人でもある母の言葉を聞きながら見るニュースは、私と世界を近くする。孫たちが皆英国人なので、母にとってヨーロッパをも巻き込むかもしれない戦争はもはや他人事ではないのだ。
その孫の長男が二十歳になり、来日することが決まった。「私孫いたっけ?」そんな質問が出るときもあるが、部屋に孫の写真をたくさん貼って以来そんなことは少なくなくなった。
思い出も写真を見ながら話すとさらに記憶に定着するようだ。写真はそんなことにも大きく役に立つようだ。しかし、以前の母だったら「もうすぐ孫が来るでしょう?布団の用意は大丈夫?」と気を揉んだものだったが、今は頭の中にその心配はないようだ。
高血圧で受診
このところ、ショートステイへも順応していてとても落ち着いている。帰宅後も「夜中もね、ちゃんと見ていてくれる人がいて安心なのよ」と言う。でも「お風呂全然入れてくれないのよ」とか「ご飯何食べてたのかな?あら、まったく思い出せないわ」とも言う。
そんな時、施設の担当者さんから電話があり「このところ、お母様血圧が高いです」との指摘があった。
母は、確かに老いの中で体力の減退や新しく憶えられない事は増えているが、身体能力が著しく落ちているようには見えない。
でも、念の為に主治医を訪ねた。
医師は、耳の遠い母に「どう?元気にしてるの?ごはんちゃんと食べてる?」と大きな声で話しかけながら脈をとる。
「は~い、元気で~す!私ね、女学校時代にテニスで鍛えてましたからね!」とはっきり答える母。
診察の最中に、母はその言葉を10回は繰り返していた。聞いているとまるで志村けんのコントのようでもあるが、母の純粋なまでの元気さに私はちょっとうら悲しい気持ちになった。
結局、血圧は高いものの、降圧剤は、少し様子を見てからという診断で、認知症の症状を緩和する薬だけが処方された。
母の従姉妹である神奈川の叔母(82歳)に連絡してところ、「年取るとね、皆血圧高くなるのよ~。血管細くなるから一生懸命に心臓のポンプ使っているということよね」とのこと。
元々母も私も低血圧気味ではあるが、私もすでに40代の頃のような低血圧ではなくなっている。体は刻々と変化しているのだ。
93年。山あり、谷あり、生きてきた一人の女性。それが母である。
写真・文/飯田裕子(いいだ・ゆうこ)
写真家・ハーバリスト。1960年東京生まれ、船橋育ち。現在は南房総を拠点に複数の地で暮らす。雑誌の取材などで、全国、世界各地を撮影して巡る。写真展「楽園創生」(京都ロンドクレアント)、「Bula Fiji」(フジフイルムフォトサロン)などを開催。近年は撮影と並行し、ハーバリストとしても活動中。HP:https://yukoiida.com/
Youtube:Yuko Iida 海からの便り
https://youtu.be/U7NkRY5S0yg
写真展 「海からの便りII」はVRバーチャルリアリティーでご覧いただけます。
https://www.nodaemon.site/photo/iida/tour.html