『鎌倉殿の13人』47話「ならば答えは決まっています」政子の名演説で坂東武者団結、さあ承久の乱!
NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』47話。後鳥羽上皇(尾上松也)との対立から承久の乱へ。北条義時(小栗旬)への不信感でバラバラになってしまった坂東の御家人たちが政子(小池栄子)の名演説で団結する。最終回の直前!「ある朝敵、ある演説」(副題)の回を歴史とドラマに詳しいライター、近藤正高さんが、歴史書を紐解きながら考察します。
上皇の狙い
『鎌倉殿の13人』第47回では予告どおり、尼将軍の政子(小池栄子)が御家人たちに向けて一世一代の演説を行った。鎌倉幕府が危機に直面した承久の乱におけるエピソードとして、教科書などでもおなじみである。しかし、こんな形で描かれるとは。まったく予想外の展開に息を飲んだ。
承久の乱のそもそもの発端は、承久元年(1219)7月に京で源頼茂(井上ミョンジュ)が起こした朝廷への謀反にさかのぼる。頼茂は、かつて頼朝に先立って以仁王とともに平家打倒のため挙兵した源頼政の孫であり、摂津源氏として代々、内裏(皇居)を警固する大内守護の要職を務め、実朝が鎌倉殿の時代には幕府政所の別当にも任じられた。実朝亡きあとは自分が鎌倉殿になる気でいたのだろう。それがふたを開けてみれば、実朝の後継には摂関家(九条家)出身の三寅が選ばれた。頼茂はそれを不服として謀反を起こした……というふうに、劇中では描かれていた(実際には、頼茂に謀反の噂があると在京の御家人から後鳥羽上皇が要請を受け、追討の院宣を出したというのがどうも真相らしい)。
今回の冒頭、内裏(天皇の住まい)に立て籠った頼茂は、官軍に囲まれ、「もはやこれまで」と火を放った。鎌倉殿の後継者争いに朝廷が巻き込まれたあげく、朝廷の象徴である内裏を焼かれ、後鳥羽上皇(尾上松也)は激怒する。ここは何としても諸悪の根源である執権・北条義時(小栗旬)を陥れねば気が済まない。そこで思いついたのが、内裏の再建費用を全国の御家人に負担させるという策であった。義時は絶対にこれをよしとしないが、御家人たちは上皇の命とあっては断れまい。こうして義時を御家人たちから分断し、孤立させようというわけである。
しかし、そうとは知らない義時は、御家人たちに出費の取り立てには応じないよう命じるつもりでいた。最終的な判断を委ねられた政子も、ちょうど鎌倉でも火事があいついだため、当面はその復旧を優先させ、都に力を貸すのはそのあとと決めてしまう。
そのころ、義時は妻・のえ(菊地凛子)の兄である伊賀光季を京都守護に任じていた。幕府が朝廷ににらみを利かせるための役職である。のえは喜ぶが、しかし、のちのちこれが悲劇を招くことになる。一方、のえの祖父である二階堂行政(野仲イサオ)は、彼女に何としても息子の政村(新原泰佑)を北条の跡継ぎにするようせっつく。のえも折に触れて義時に訴えてはきたが、彼と嫡男の泰時(坂口健太郎)は対立しながらもお互いを認め合う関係で、そこに割って入るのは至難の業だった。それでも、義時もすでに60歳間近とあってか、彼女は「もう悠長にはしていられません」と腹をくくる。
そうこうしているあいだに、内裏修復の件で御家人たちの不満がくすぶる。彼らからすれば朝廷の取り立てには応じるなと言われても、上皇とは揉めたくない。そこで執権である義時が上皇とうまく話をつけてほしいと、長沼宗政(清水伸)たちが泰時相手に強く訴えたのだ。ここへ来て義時も、泰時から指摘され、ようやく上皇の狙いに気づく。
宗政は三浦義村(山本耕史)を相手に、実朝が亡くなって以来北条がのさばりすぎだとぼやく。義村は義村で、京に赴任中の弟の胤義(岸田タツヤ)をひそかに上皇に接近させ、またしても何やらたくらんでいる様子。ちょうどそのころ、胤義は上皇に拝謁し、鎌倉では義時に見切りをつけ、上皇にすがろうという者が大勢いると伝えていた。上皇はこれを聞いて喜び、自分を頼ってくれれば取り立ては免除だとまで約束する。
油断ならない義村
御家人と義時の関係にくさびを打ったのに続き、上皇は次は義時を呪詛するよう慈円(山寺宏一)に命じた。だが、内裏再建の費用を御家人から出させると上皇が言い出したときから、慈円は上皇様は一体鎌倉をどうしたいのかと疑問を呈し、煙たがられるようになっていた。呪詛の命令にも、いま義時がいなければ鎌倉は立ち行かないと抵抗するが、あっさり退けられてしまう。
慈円は、朝廷が鎌倉をコントロールするよう説いてはきたが、それでも鎌倉の重要性は承知していた。それゆえ鎌倉を敵に回そうとする上皇に反対するのだが、結局それは聞き入れられず、側近の座から追われてしまう。ちなみに慈円の著書『愚管抄』は公家政権と武家政権の融和こそ歴史の必然と説き、倒幕に突き進む上皇を諫めるため書かれたといわれる。
上皇は慈円に替わって藤原秀康(星智也)を重用し、鎌倉と一戦を交えるべく着々と準備を進める。ドラマもどんどん先へと進んでいく。あまりの展開の速さに、頼茂謀反からすぐに承久の乱が起きたのかと錯覚してしまうが、実際にはその間に2年の月日が流れている。そのことは、前回はまだ赤ん坊だった三寅(中村龍太郎)が育つ姿からかろうじてうかがえた。三寅が数えで3歳のときには義時から袴を着けてもらい、最高指導者であることを御家人たちに改めて見せつける「着袴の儀」も執り行われる。これが承久2年(1220)12月1日のこと。そのあいだにも京では義時を調伏するための祈祷が続けられ、上皇はついに機は熟したと、決断を下す。京都守護職の伊賀光季を討ち取るよう秀康に命じ、これをもって義時追討の狼煙とすると宣言したのだ。
こうして承久3年5月15日、光季は官軍に討ち取られた。まもなくして義村は、胤義の書状を通じて上皇からこちらの味方につき義時を討つようにとの密命を受ける。しかし、そのためにはまず大義名分がほしい。そう宗政に話していたところ、タイミングよく押松なる朝廷の密使が上皇の院宣を届けに来た。押松とはまるでどこかの六つ子の名前のようだが、ちゃんと史料に伝えられる人物である。もっとも、その正体を、かつては後白河法皇の側近(木曽義仲には「鼓の判官」とからかわれた)で、のちには源頼家に蹴鞠を指南するため鎌倉に下向した平知康(矢柴俊博)としたのは、三谷幸喜の創作だ。
院宣を受け取って勢いづく義村だが、じつはそれより早く宗政が院宣を受け取っていた。これにプライドが傷ついたのか義村は、直後に手のひらを返すような行動に出る。このとき光季が殺されて4日が経ち、鎌倉にも凶報が伝えられていた。今後の対処について義時や政子が宿老たちと評議する場に、宗政と遅れて参じた義村は、あっさり院宣を受け取ったと打ち明け、現物を提出、押松も捕らえて取り調べると告げたのだ。こんなことをされては宗政も同調せざるをえない。それでも再び宗政と2人きりになると、義村はまだあきらめたわけではなく、様子を見ると言うのだが……。
考えてみれば、義村は、幼いころから義時とは親友であると同時にライバルであり、ときには裏切りかけながらも、最後には結局、義時に味方するということが続いてきた。義時としても、義村のそんな性格を利用して敵を攪乱する役目を担わせるところがあった。しかし、義村は実朝暗殺に乗じて公暁と義時暗殺を謀ってからというもの、いよいよ油断ならない存在になってきた。今回の手のひら返しも義時を欺くための策なのではないか。やはりそう勘繰らざるをえない。
他方、のえは兄が突然殺されたことに動揺し、義時に駆け寄って詳細を問いただすも、「あとにしてくれ」と突き放されてしまった。夫の態度にますます不信感を募らせた彼女は「許せませぬ」と口走る。
政子の演説
さて、院宣は義村と宗政を含め8人の有力御家人に届けられていた。それらを前にして、泰時が上皇と一戦を交えるしか選択肢はないと訴えたのに対し、義時は「おまえはいつもわしと逆のことを考えるな」と苦笑する。彼は、今回の院宣が鎌倉を攻め込むのではなく、あくまで義時を追討せよという内容だと気づいていた。それならばと、自分が京に赴き首を差し出せば、戦を回避できると思い、覚悟を決めたのだ。そしてこれを機に泰時に北条と鎌倉を託し、彼を支えるよう弟の時房(瀬戸康史)と下の息子の朝時(西本たける)に念を押す。彼らは一応は承諾したものの、泰時はやはり釈然とせず、「鎌倉のために命を捨てるおつもりですか」と訊ねる。が、義時はほかに手はないと退け、それを伝えるため急いで御家人を集めるよう命じ、今度は政子に会いにいってくると部屋を出ていく。扉を開くとのえが何とも言えない表情で立っていた。彼女は館の門前まで出て夫を無言で見送ると、ひとりむせび泣く。
政子もまた、義時に翻意するよう説得するが、彼は自らの人生を省みて、もとはといえば伊豆の片田舎の小さな豪族の次男坊が上皇にその名を口にされ、それどころか討伐の対象となったことで自分は平清盛、源義経、源頼朝に並んだのだと、自嘲気味に笑みを浮かべる。そして「面白き人生でございました」と、言うだけ言って部屋を出ていった。これに尼になった実衣(宮澤エマ)が「かっこよすぎなのよ」とあきれると、政子は「大丈夫。かっこいいまででは終わらせません」と言って動き出す。大江広元(栗原英雄)に、御家人たちに向けての演説の原稿を依頼したのだ。ただ、スピーチライターは広元だったの? と思うとちょっと興覚めしてしまった(広元が目が不自由になりながらも筆をとる姿には文官魂を感じたものの)。
実際、義時が御家人を集めて説明を行おうとしたところへ、紫の頭巾と法衣をまとった政子が「待ちなさい」と言って読み始めたのは、いかにも官僚の作文だった。しかし、本番はここからであった。「源頼朝様が朝敵を討ち果たし、関東を治めてこの方、その恩は山よりも高く、海よりも……」と言いかけたところで政子は原稿を実衣に渡すと、自分の言葉で語り始めた。いわく、上皇が狙っているのは鎌倉ではなく、執権・義時の首であり、それさえ差し出せば兵を収めると院宣には書かれていた、そこで義時は自分の首を差し出そうとしたのだと。そこまで明かしたところで、義時が「姉上、もういい」と口を挟むが、政子はそれを制止し、さらにこう続ける。
「鎌倉が守られるのならば命を捨てようとこの人は言った。あなたたちの犠牲になろうと決めた。もちろん私は反対しました。しかし、その思いは変えられなかった。ここで皆さんに訊きたいの。あなた方は本当にそれでよいのですか? たしかに執権を憎む者が多いことは私も知っています。彼はそれだけのことをしてきた。……でもね、この人は生真面目なのです。すべてこの鎌倉を守るため。一度たりとも私欲に走ったことはありません!」
短いセンテンスを適度に間を置いて語りかけるのが心に響く。さらに途中で問いかけることで、がぜん御家人たちは耳を引きつけられただろう。しかも「執権を憎む者が多いのは知っている」と義時に批判的なことをあえて口にしたうえで、彼がなぜ憎まれるようなことをしてきたのか、その理由を明かして説得にかかる。これに「それは私も知っています」と実衣が合いの手を入れたのも効いていた。
このあと、政子は「鎌倉始まって以来の危機を前にして選ぶ道は2つ。ここで上皇様に従って、未来永劫、西の言いなりになるか、戦って坂東武者の世をつくるか。ならば答えは決まっています。すみやかに上皇様を惑わす奸賊どもを討ち果たし、三代にわたる源氏の遺跡(ゆいせき)を守り抜くのです。頼朝様の恩にいまこそ応えるのです」と訴えた。「すみやかに~」以降の部分は『吾妻鏡』の記述が下敷きになっているが、その前に選択肢を用意して改めて御家人に問いかけ、それに対し「答えは決まっている」と断言したおかげで、訴えに説得力が増している。
そして終盤、「向こうはあなたたちが戦を避けるために、執権の首を差し出すと思ってる。馬鹿にするな。そんな卑怯者はこの鎌倉にひとりもいない! そのことを上皇様に教えてやりましょう!」と団結を呼びかけると、御家人たちは「オーーッ」と大声で応じた。そこへ政子は念のため「ただし敵は官軍。厳しい戦いになります。上皇様につきたいという者があれば止めることはしません」と付け加えるのだが、すぐさま泰時が引き取って「そのような者がここにいるはずがございません。いまこそ一致団結し、尼将軍をお守りし、執権殿のもと敵を打ち払う。ここにいる者たちは皆、その思いでいるはずです。違うか!?」と訊ねれば、御家人たちはここで怖気づいては坂東武者の名折れとばかり「そのとおりだー」と気炎をあげた。
その様子に広元は目を開いて微笑み、三善康信(小林隆)は涙を流した。対して義村は複雑な表情を見せる。当の義時は涙をぬぐうと、泰時に「執権殿、これが上皇様への我らの答えです」と告げられた。そして義時が真っ赤に泣きはらした目で政子を見つめると、彼女の観音様のような笑みを浮かべ涙ぐむカットで、ついに最終回へと「つづく」。
政子が原稿を捨て、自分の言葉で語り始めた瞬間、その姿が『吾妻鏡』など歴史書の記述から解き放たれ、生き生きと立ち現れた。そうした瞬間は『鎌倉殿』にこれまで何度もあったとはいえ、やはり今回は特別だ。何より演説が全体を通して政子が義時を赦すという形になっていたのが、ドラマをずっと観てきた者には胸を打たれた。
これまで義時は、鎌倉の安寧のためと称して粛清に粛清を重ねてきた。政子もまたそのために自分の息子や孫の命を奪われており、内心では義時を憎むところもあっただろう。しかし、義時は今回、自分のせいで鎌倉が危機に陥るや、迷わず自分を犠牲にする道を選んだ。そのブレのなさに政子は一転して彼のしてきたすべてを赦し、あのような演説となったのではないか。と同時に、政子にとっては、自分が頼朝と結婚したがゆえ、こんな人生を歩まざるをえなかった弟への償いという意味合いもあったような気もする。
ともあれ政子の名演説で、坂東の御家人が団結し、いよいよ官軍に立ち向かう。とはいえ、残すところあと1回。最終回は1時間に拡大とはいえ、果たして承久の乱はどこまで描かれるのか。ひょっとすると冒頭であっさり勝負が決し、そのあとは義時が死ぬまでがじっくり描かれそうな予感も抱くが……。
文/近藤正高 (こんどう・ まさたか)
ライター。1976年生まれ。ドラマを見ながら物語の背景などを深読みするのが大好き。著書に『タモリと戦後ニッポン』『ビートたけしと北野武』(いずれも講談社現代新書)などがある。