【連載エッセイ】介護という旅の途中に「第31回 いざ、鎌倉」
写真家でハーバリストとしても活躍する飯田裕子さんによるフォトエッセイ。父亡き後に認知症を発症した母と千葉・勝浦で暮らす飯田さんが、日々の様子を美しい写真とともに綴ります。
今回は、母と母の従姉妹を誘って旅に出た話だ。
ガーデニングに挑戦中
異例のスピードで梅雨開けし、いきなり酷暑の昨今だが、梅雨入り前は、なかなか気温が上がらなかった。庭にようやく植えたハーブの苗の生育がいまひとつで、近隣に暮らすガーデンの先輩たちも同じように口にしていた。
今までマンション暮らしだった自分にとっては、メディカルハーブの知識はあっても、実際にハーブを育てるとなると話は別。ガーデニングは全くの初心者であったことを思い知らされる。庭作りに関しては父の趣味だったので、母は庭を散策し、お花を摘んでいたと思い返す。花の季節になると玄関にはいつも庭の花が生けられていた。
母はそんなかつての習慣もあり、庭に出て花を見ると摘んでしまう。私は毎朝いくつもの花瓶の水をせっせとかえる係となる。まさに、姫の庭遊びを支える侍従状態。
「ママへ。花は庭で愛でましょう。部屋の中の花は花瓶に1つに!」
と、デカいメモを書いて母が座る場所に貼った。
「私、そんなことしてるかな?忘れちゃうんだから困ったものだわね」
と母。
そして数分後には「花瓶はどこかしら?」と、食器を代用して生けている母。幼い童のようでもあり、ほとんどコント状態だ。
「あ~!それは使わないでくれる!」
私が大切にしてきた食器が花入れになっているのを見るとつい強い口調になる、懐の狭い自分。各地を旅取材する折に触れ、陶芸家さんや窯元などから、少しずつ記念に買い求めた器へは思い出ごと愛着があるのだ。
母は「わかりました」とその時には言うけれど、やはり覚えられないので、繰り返す。そこで、当面は大切な器は棚の奥へと仕舞い、100均の皿や器を普段使いにしてみた。
でも、自分にとっては暮らしの中の彩りが消えてゆく寂しさがある。介護という現実の最中には“諦めのため息”が漏れる瞬間が何度もあるが、そのため息が溜まって、大きなガス爆発にならないようにするにはどうしたらいいのか…。
母を連れて鎌倉旅行へ
そんな時、ようやくコロナ規制も弱まってきたので、母を連れて鎌倉の叔母(母の従姉妹)に会いに行くのがいいのでは?と思い立った。
叔母とは時々オンラインで顔を見ながらお話はしているものの、2年は直接会っていない。母に至っては、祖母の葬儀の時以来なのでもう15年以上会っていない。今や母にとって親近感がある親戚は叔母くらいだ。
早速叔母に連絡すると
「ちょうどこちらの施設でも数人の旅行なら出かけてもOKになったのよ~嬉しいわ」
との返事。
母にはあまり早く言うと、そういうことだけは忘れすに反応し、行きたくないと言いかねないので内密にしホテル予約などの手配を進めた。
以前からの母の癖で、旅の計画を父が提案すると「私、行きたくないわ、家にいる」と言い、旅の直前まで浮かない顔をし文句を言うのだ。でも、いざ渋々と出かけてみると父以上に好奇心を発動して景色や出会いに感動するのが母だった。
「だってもともと活動派よね、Kちゃんは」とは、幼い頃から母を知る叔母の言葉だ。
そして前日、いよいよ「明日、鎌倉に行ってホテルに泊まってY叔母ちゃんと会うからね」、そう伝えると「え?着ていく服がないわ、別に会わなくてもいいわよ」と、いつもの返事。
「洋服はたーくさんあるから大丈夫。準備は私がするからママは何もしないで車に乗ってればいいからね」と、さとす。
当日は雨。「今日あなただけ行って、私行かなくていいよ大変だし」と、いつもの母のゴネが始まる。めんどくさいオンナなのだ。
私は苛つきながらも「ママ、何もしないで車に乗ってるだけでいいのよ、もうホテル代も払ったのだし叔母ちゃんも待ってるよ」と服を準備し着替え始めるとだんだんと調子が出てきた。ヘアメイク、そしてスタイリングをし鏡を見ると、普段着とは違う雰囲気に母も気分が上がってきた「丸の内のお勤めでね…」と、いつもの話題。
「毎日違う服を着ていかなくちゃいけないと上司に言われてね、休みの日にはミシンで縫ったのよ」
あいにくの雨と風。車が走り出すと母は見える景色に反応し始めた。房総から鎌倉までのフェリー。金谷港も風が強いが出港できた。
フェリーの思い出
「このフェリー、確かずいぶん前に乗ったことあるかしら?」
と母。「うん、私が小学校の夏休みに房総半島一周して乗ったね、写真もあるね」と、思い出話。
フェリーの客室にはまばらにしか人がいない。自衛隊の巡視船や貨物船が東京湾に入港する中を横切る東京湾フェリーからは色々な船が見える。
「ああいう船の貨物の中身を私はタイプしていたんだねえ。小麦がFlourとか…。昔はタイプしかなかったからね、書類が山積みだったのよ。タイプに打った書類を丸の内郵便局から横浜に送ったり。それはポスト係の男の子がやってたわ。
ある時ね、港湾担当の男の子が、貨物が到着する場所を見せてあげると言ってたけれど、仕事ですものね、女性を連れていくわけにはいかなかったでしょうね。
まだ戦後間も無くて日本の商社も貿易らしい貿易ができなくて、私が勤めていた英国の会社くらいだったんじゃないかしらね。11年勤めて、あなたがお腹に入って半年までは仕事したわね」
と海を眺めて話す母。私の胎教はもしかしたらタイプの音だったのか?とふと思う。
「ああ~あっちから船が近づいてるよ、ぶつかる!ぶつかる!ほら、もっと向こうに行かなくちゃ」
とまるで船長気分で指示する母。
「大丈夫、ちゃんとレーダーで見張ってるのよ今は、」
と言いつつ、コントのようで可笑しくなった私。母と「旅」のイメージが結びつかなかったが、これは意外とよい展開かもしれない。もともと母と2人で旅したことなどないけれど、父が逝って以来、母との日常をどう過ごすかしか頭になかった。しかし、今も母は足腰は健康で何でも食べられ、トイレも1人で行けるので、逆に今しか旅のチャンスはない。
フェリーを降り鎌倉へ。ようやく由比ヶ浜に差し掛かると
「子供の頃に父と母と神田から由比ヶ浜に来たわね。あの頃、母は着物着ていたね。海といえば鎌倉よ。八幡宮の階段で私が駄々こねて泣いてね、写真が残ってるわ。当時は千葉なんて馬鹿にしていたけどね、勝浦の海の色はやっぱり綺麗だね」
回想と感想を話す母。
2年ぶりに従姉妹と笑顔で再会
ホテルは七里ヶ浜で、人も多くはなく、リラックスしたムードだった。私は予約する時に、母と叔母が高齢であることを伝え3名で泊まれる部屋にした。するとホテルではフロントから近い便利な部屋を用意してれていた。
部屋からは江ノ島が見えた。叔母も到着し、久しぶりの再会となった。
「Kちゃん、まあ、何年振りかしらね~」
「Yちゃん、あなたは鎌倉の家にひとりなの?」(施設に入っていると話しても、忘れていた。)
幼い頃からの従姉妹同士。全く違和感なく会話が進む。
懐かしい写真アルバムを2人で見ては「これは琵琶湖だったわね」と祖父母の実家、滋賀県での話題になる。母は戦時中に疎開していたし、10歳年下の叔母は従姉妹たちの中で最年少で皆のオモチャにされていたという話。
「従姉妹たちで合唱団作って歌って、Yちゃんが傘持って日本舞踊を踊るのよ、指導は最年長のとしちゃんだったわね。」
戦中、疎開先での幼少時代の話をしては無邪気に笑う2人の姿に、私も心が和んだ。戦時下でも、子供たちはそれなりに遊び心を失っていなかったのだ。
季節柄ホテルでは紫陽花のアフタヌーンティーが催されていた。母は英国系の会社の会社に勤めていた時代「あなたの淹れる紅茶は美味しいですね」と上司に言われたと自慢し「必ず、目上の人にはサーをつけたものだった」と話したりした。
しかし、耳が遠い分多少声も大きく「Yちゃんはこういう所にご主人と来ていたんでしょう?ウチのパパはねえ、洒落たこと全くできないから一回もこんな場所に連れてきてもらったことないのよ!」と、周りを気にせずにこんな発言も。
でも意外と馴染みが早く、とてもリラックスしている。夕暮れが迫り富士山のシルエットが現れて来ると2人で眺めては延々と話が弾んでいた。
「そうねえ、お互いに旦那がいる時にはこんなふうに会おうとしなかったから、今ようやくね。ここに来てよかったわ」
夕食は和食にして完食。私は、予約時に「高齢者なので、食べられるかどうかわからないので、食事はアラカルトで」と、お得なプランにしなかったのを悔やんだ。
夜も母はよく眠っていた。私は、2人がまだ眠りの中にいる4時過ぎに七里ヶ浜に降りてゆき、千葉の海とは違う湘南の海の朝を撮影した。緩やかなパワーのうねりがやってきて、サーファーたちもそぞろに朝イチの波を楽しんでいる。
朝食も卵料理から何まで全て完食し、再び部屋でゆっくりしていると「今夜もここに泊まるのね?」と母。こんなに乗り気で元気だったら2泊にしてもよかったかもしれない。往復の道のりは大変かもしれないが今回はまずお試しの旅とした。
帰路に、藤沢の叔母の自立型施設まで一緒に行き、叔母の部屋に入りまたしばしの歓談。帰路のエレベーターでは「あ、おじいさん、こちらへどうぞ」と母はまるでここの主のように話している。
「また会いましょうね!勝浦へもきてちょうだいね。私もまた来るからね」と、叔母と別れ房総へ向かい車を走らせて20分。
楽しかった時間も忘れてしまう
すると、「Yちゃんは鎌倉の家にいるんでしょう?旦那さんは?」と母。
「え!たった今までマンションのような施設に行ったの覚えてないの?Y叔母さんは鎌倉の家でなくてあそこにいるのよ!」
運転しつつ聞いていた私もさすが驚いた。
「忘れてしまうねえ」と母。ため息の私。
この会話を叔母にLINEすると、
「楽しかった日のことも忘れてしまうのかと思うと、ちょっと寂しいですね」
と返信がきた。そこで何度も話題にし、写真を見せて、フィックスしてみようと試み。でも、もしそれでも忘れたとしても、あの時間には確かに心底楽しかったのだからそれでいい。
本当の価値は記憶にあるのではなく、「今ここ」にあるのだから、と自分に言い聞かせた。
1泊2日の鎌倉旅から帰り、心配していたが、母は何ら疲れを見せず元気であった。おそらく、私の体の方が疲労していた。
私は鎌倉の旅の写真でプリントを作り、食卓で一緒に見られるようにした。すると母は「夏に行ったらあのホテルのプールで泳げるね!」と昭和一桁のもと少女はノシ(古式泳法)の手振りをしてニコリと笑った。
写真・文/飯田裕子(いいだ・ゆうこ)
写真家・ハーバリスト。1960年東京生まれ、船橋育ち。現在は南房総を拠点に複数の地で暮らす。雑誌の取材などで、全国、世界各地を撮影して巡る。写真展「楽園創生」(京都ロンドクレアント)、「Bula Fiji」(フジフイルムフォトサロン)などを開催。近年は撮影と並行し、ハーバリストとしても活動中。HP:https://yukoiida.com/