『鎌倉殿の13人』20話 三谷流弁慶の立ち往生と最期まで無邪気に戦況を楽しんだ義経(菅田将暉)
NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』20話は、奥州に逃れた義経(菅田将暉)の運命が、兄・頼朝(大泉洋)によってとうとう決してしまう悲劇の回。「帰ってきた義経」(副題)の回を、歴史とドラマに詳しいライター、近藤正高さんが、歴史書を紐解きながら解説します。
温かく迎え入れた藤原秀衡(田中泯)
悲しい最期だった。義経(菅田将暉)は壇ノ浦で平家を滅ぼして栄光をつかんだのもつかの間、頼朝(大泉洋)の怒りを買い、あっという間に転落の一途をたどった。
義経の終焉を描いた第20回はまず、前回から2年ほど進み、文治3年(1187)、義経が藤原秀衡(田中泯)を頼って奥州・平泉に逃れたところから始まった。前回では義経挙兵の報を受け「早まったな、九郎」と言っていた秀衡だが、いざ義経が自分の前に現れると我が子のように温かく迎え入れた。
義経の奥州入りは間もなくして鎌倉にも伝えられた。それを知った義時(小栗旬)は、かつて京で遭遇した義経に対し、戦の火種をつくらないため奥州には行かぬよう忠言していただけに憤る。
ただ、秀衡はその年のうちに死去してしまう。彼は死を前に、二男の泰衡(山本浩司)を自分の後継者に指名し、その異母兄の国衡(平山祐介)には自分が死んだら妻のとく(泰衡の母/天野眞由美)をめとるよう言いつけた上、義経を大将軍に据え、兄弟に「九郎のもとで力を合わせよ」と遺言する。そして庭に出ると「もう少しわしに時があったら、鎌倉に攻め込んで……」と言って崩れ落ちた。秀衡は、頼朝の挙兵後も、源平双方からの出兵要請を無視し、あくまで中立を貫いてきたが、死期を悟ってついに頼朝との対決を決断したのである。
心を無にする義時(小栗旬)
秀衡の死後、さらに2年の月日が流れ、文治5年(1189)閏4月。義時が頼朝に対し、奥州から義経を連れ戻したいと申し出る。頼朝は承諾するも、ただし生かして連れて帰るなと条件をつけた。これに義時は意表を突かれたような表情を見せる。おそらく彼は、義経は殺さざるをえないものの、その前に鎌倉に連れ戻し、最後だけでも頼朝と会わせようと考えていたのではないか。そうすることで、自分が結果的に奥州行きを許してしまった義経(そもそも義時は父の時政とともに、出頭した義経を捕えずに逃していた)に対し責任を全うしようとしたとも解釈できる。もっとも、義時が義経の処分にあたったというのは、あくまで三谷幸喜の創作だが。
頼朝はさらに義時に、こちらからは手を下さないよう命じた。秀衡の息子の国衡・泰衡兄弟の仲の悪さにつけ込み、二人を引き裂いて、泰衡に取り入りたきつけて義経を討たせろというのだ。弟を討つため先方の兄弟を引き裂けとは、何という皮肉だろうか。
義時の平泉行きには、善児(梶原善)が主人の梶原景時(中村獅童)の命を受けて同行した。義時からすれば、善児は自分の祖父の(そして妻の八重の父でもある)伊東祐親を殺した張本人だけに複雑な思いを隠せない。義時にとってはまた、今回初めて頼朝の謀略の一端を意識的に担ったことになる。任務遂行のため心を無にする義時を、小栗旬はたびたびうつろな目を見せるなどしてうまく表現していた。今後はおそらくこういう機会が増えると思うと、やや憂鬱になる。
静御前(石橋静河)の最期
ともあれ、そのころ、義経は農作業にいそしみ、妻の里(三浦透子)と幼い娘とともに静かに暮らしていた。畑を食い荒らすコオロギの退治のため、神仏に祈る風習に反発し、わら束に火をつけて煙でいぶすという方法を考案していたのが、あいかわらず戦略家の義経らしい。
義経は久々に義時と再会すると、もう戦をするつもりはないと断言しつつも、平泉に手を出せばけっして許さないと警告した。そんな彼をたきつけるべく、義時は静御前(石橋静河)の話をさりげなく持ち出す。
静御前は、義経が京を落ち延びた直後、吉野から鎌倉に向かう途中で北条時政の手勢に捕えられていた。劇中ではしばらく回想シーンとして、鎌倉に連行されてからの静の一部始終が描かれる。彼女は、時政の妻・りく(宮沢りえ)に義経の子を宿していると見抜かれると、政子(小池栄子)たちからいますぐ鎌倉を去るよう説得された。しかし、里の親族である比企能員の妻・道(堀内敬子)から「あなたは九郎殿から捨てられたのですよ」と憎まれ口を叩かれるや、一転して自分は静御前だと名乗り、その証拠として舞いを披露すると言い出す。
子供を殺されたら自分も死ぬと覚悟を決めた静だが、それを知った頼朝の娘・大姫(南沙良)は「もう人が死ぬのは見たくない」と訴え、義時からも、舞台は頼朝も見るゆえ偽者のふりをするよう釘を刺された。静はこれに従い、しばらくはわざと下手に踊っていた。しかし、ふいに立ち尽くし、義経の「生きたければ黙っていろ」との言葉を思い出すと、意を決したように義経への思いを込めた歌をうたいながら本気で舞い始める。「どうして……」と戸惑う大姫に、政子は「おなごの覚悟です」と答え、続けて「あなたが挙兵されたとき、私も覚悟を決めました。それと同じことです」と隣りにいる頼朝を諭すのだった。
静御前を演じた石橋静河は、4歳よりクラシックバレエを始め、俳優とあわせてコンテンポラリーダンサーとしても活動するだけに、さすがに流麗な身のこなしだった。踊りといえば、藤原秀衡を演じた田中泯も国際的に評価の高い舞踏家である。第20回では終盤、鎌倉に対し挙兵を決意した義経の前に、秀衡が亡霊として現れ、庭の土を両手ですくったかと思うと捨て去り、右手を空に向かって高々とかかげた。その動作がまるで舞踊のようであった。
静御前はそれから4か月のちに出産したが、男の子だったため、頼朝が事前に命じていたとおり海に沈められる。彼女自身も鎌倉を去り、そのまま消息を絶った。義時からそう聞かされ、義経の胸に頼朝への恨みがふつふつと湧き上がる。しかし、それこそが頼朝の思うつぼであった。
里(三浦透子)を手に掛ける義経(菅田将暉)
このあと、義時は泰衡に対し、義経が国衡と謀って挙兵しようとしていると伝え、鎌倉に盾突くつもりがなければ、義経を討ってその首を頼朝に送り届ける以外に道はないと迫った。その際、泰衡の弟・頼衡(川並淳一)が義時の企みを察して襲いかかるが、すぐさま善児に始末される。
泰衡が兵を挙げると、義経もまた覚悟を決めた。ここで妻の里から思いがけない告白を受ける。京にいたころ義経と静御前を襲った刺客は、じつは頼朝ではなく里が静を殺すため仕向けたものだというのだ。義経はそれを聞いて思わず、里を小刀で刺し殺してしまう。その後、幼い娘にも手をかけたのは、奥州藤原氏の滅亡を予期してのことであったか。静御前も里も、真実を打ち明けたがために哀れな末路をたどった点で共通する。
なお、『吾妻鏡』の文治5年閏4月30日条には、義経は衣川館の持仏堂に入り、22歳の妻と4歳の娘を殺し、次いで彼自身も自殺したとある。この妻が、複数いたと伝えられる義経の妻のうち誰なのかまでは書かれていないが、おそらく河越重頼の娘である義経の正妻(『鎌倉殿』では里に相当)だろうといわれている。妻が義経に嫁いだのが元暦元年(1184)で、娘が生まれたのは享年(数え年)から逆算するとその翌々年ゆえ、そう考えるのが妥当らしい。
劇中の義経は、泰衡の裏切りを見越して、あらかじめ館の周囲に落とし穴をつくるなど策を打っていた。しかし、すでに死を覚悟した彼にとって、それはあくまで生涯の終わりにしばし敵をからかってやるつもりで仕掛けたまでにすぎなかったはずだ。まるで吹っ切れたかのように、無邪気に戦況を楽しむ義経の姿は、どこまでも戦いのなかでしか生きられなかった彼の人生をうかがわせた。それは、彼がひそかに鎌倉攻略の策を練っていたことにもいえる。
義経はこの鎌倉攻略法を、ひそかに鎌倉に帰ろうとしていた義時を引き留めると、梶原景時に渡してほしいと託した。そこに示された鎌倉を海側から攻めるという策は、それから144年後、鎌倉幕府を滅ぼした新田義貞の軍勢が、干潟になった稲村ケ崎をまわって鎌倉になだれ込んだ史実を思い起こさせた。
三谷幸喜流弁慶の立ち往生
義経の首は、その死から1か月半ほどのちの6月13日、鎌倉に届けられた。『吾妻鏡』によれば、藤原泰衡の使者が義経の首を持参したとき、見る者はみな涙をぬぐい両袖を濡らしたという。劇中でも、頼朝がひとり義経の首桶に語りかけ、号泣するさまが、彼にもまだ人情が残っていたのだと思わせ、ささやかながら救いとなっていた。と同時に、今回のサブタイトル「帰ってきた義経」が、冒頭における義経の奥州への帰還だけでなく、いわゆる無言の帰還をも意味していたことにようやく気づかされた。
今回も全体的にシリアスなトーンではあったが、静御前の舞う場面で、三浦義村(山本耕史)が静を近くで見たいだけの理由で演奏に加わろうとするのを、銅拍子(青銅製の小さなシンバルのような楽器)担当の畠山重忠(中川大志)が「音曲を侮るな!」と一喝する場面など、コメディ要素もちょこちょこ差し挟まれていた。静御前の舞いでは、工藤祐経(坪倉由幸)も都仕込みの鼓で彩りを添えるも、重忠の陰にかすんでしまった感は否めない。
今回印象に残ったものとしてはもうひとつ、弁慶(佳久創)が泰衡軍に応戦するに際し、体中に板きれをつけて、その上からおなじみの頭巾と法衣をまとっていたことも挙げられる。いわゆる弁慶の立ち往生(矢が体中に突き刺さった立ち姿で最期を遂げる)はじつはこういう仕掛けだったという、三谷幸喜流のアレンジだ。しかし、肝心の立ち往生の様子を出さないのがまた三谷らしい。
そこには説明するのは野暮という考えがあるのだろう。それだけでなく、家族で見ていたら子供に教えてほしいという願いも込められているようにも思った。実際、三谷は、6年前に手がけた大河『真田丸』の放送中、脚本では状況説明的なセリフやナレーションはあえて控えていると明かし、視聴者にはその分、わからないことがあれば調べたり、小さい子なら親に訊いたりしてもらう。そこから家族の会話は生まれる……と新聞の連載コラムで書いていた。三谷自身、少年時代には毎週大河ドラマを家族で見たあとで、同居していた歴史好きの叔父さんが、きょうのこの部分がフィクションだとか、あの場面は研究家のあいだではこんな説もあるとかレクチャーしてくれたという。
立ち往生はまた、伝説上のエピソードという以上に、途中で止まったまま進みも退きもできない状態を指す慣用句として、いまなお日常的に使われる。その由来も込みで、親子で話すにはうってつけの話題だろう。もっとも、劇中で子供の受難もあいつぐこのドラマが、果たして子供の情操によいものか、ちょっと考えてしまうところではあるが。
文/近藤正高 (こんどう・ まさたか)
ライター。1976年生まれ。ドラマを見ながら物語の背景などを深読みするのが大好き。著書に『タモリと戦後ニッポン』『ビートたけしと北野武』(いずれも講談社現代新書)などがある。