兄がボケました~若年性認知症の家族との暮らし【第111回 「生物学」で現実逃避の巻】
「人はなぜ生きるのだろうか」という深淵なテーマが今回のお話です。認知症だった母の介護や看取りを経て、現在は若年性認知症を患う兄と2人で暮らすツガエマナミコさんが、“生物学的”な視点で認知症を考えてみたのですが…。
「明るく、時にシュールに」、でも前向きに認知症を考えます。
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認知症は長寿の中で枝分かれした多様性なのか!?
「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」
これが画家ポール・ゴーギャンの作品タイトルだと知ったのは、お恥ずかしながらつい最近のことでございます。いわずもがな知的YouTubeチャンネルのクイズで知りました(笑い)。
両親を見送り、若年性認知症の兄を介護するようになる前から、この手の疑問はわたくしの中にもありました。「なんでどうせ死ぬのに生きなければいけないのだろう」という中2病的な発想でございます。
でも、50歳を過ぎて身内の死や介護を経験するようになって、益々「生きている意味」が掴めない状況になってきました。いえいえ、ご心配なさらないでいただきたい。お話ししたいのは「生き物全般」であり、いわば「生物学的に」ということでございます。
そんな折、本屋さんで出合ったのが『生物はなぜ死ぬのか』(生物学者・小林武彦著)という本です。
はじめに、の冒頭、「地球には2つのものしかありません。それは『生きているもの』とそれ以外です」の一文を読んで、ホスト界の帝王・ローランドの名言「俺か、俺以外か」を思い出し、妙に魅かれてしまったのです。
この本を読むと「死ぬこと」が「生まれる」に直結していることがわかります。むしろ死なないと生きられない生き物の進化の仕組みがあると知りました。氷河期が食糧難を招き巨大な恐竜たちを絶滅させ、かろうじて生き残った昆虫や小動物が進化してきた中で、ごく最近できあがったのが人間なのだといった話は聞いたことがあります。けれど「死ぬことが進化の鍵」という視点は目から鱗。壮大な歴史の中ではそうやって主役が変わってきたし、人間もいつか絶滅して土になったり、水になったりして新しい生き物を生み出す素材となるのです。
このような雑学が、この歳になってやっと芽生え始めたわたくしの知的好奇心にバシバシ響いてくるのでございます。わたくしやゴーギャンが抱いたモヤモヤをことごとく論破してくれる圧倒的な情報量で「生物学おもしろ!」となりました。
無理やり兄のことにこじつけると、「多様性」が生き延びるための鍵だとすれば、兄のような認知症も長寿の中で枝分かれした多様性の一種かもしれません。可能性は限りなくゼロですけれど、記憶できないことこそが生き延びられる環境になったときのための秘密兵器といいましょうか。ダハハ。
とにかく、わたくしがこの本で救われたのは「死ぬと何かの役に立つ」ということでございます。生きている間は、ほかの生き物をむさぼり、海を汚し、緑を壊し続けるけれど、死ぬと未来の生き物の何かになれる。妹に世話をかけ続ける兄も「何の役にも立たない」わけではなく、死ぬと確実に役に立つのでございます。
地球が生き物の住める環境をキープしている限り、形を変えて生き続けているのが「生物」だと教えてもらえたことで、おぼろげながら、生きている意味を掴んだ気がいたしました。
そうこうしている間にお夕飯のお買い物の時間です。「尊い命をいただく」なんて敬虔なことを考えず、今宵も自分好みの味付けで美味しくいただくことといたします。
文/ツガエマナミコ
職業ライター。女性58才。両親と独身の兄妹が、7年前にそれぞれの住処を処分して再集合。再び家族でマンション生活を始めたが父が死去、母の認知症が進み、兄妹で介護をしながら暮らしていたが、母も死去。そのころ、兄の若年性認知症がわかる(当時57才、現62才)。通院しながら仕事を続けてきた兄だったが、ついに退職し隠居暮らしを開始。病院への付き添いは筆者。
イラスト/なとみみわ