兄がボケました~若年性認知症の家族との暮らし「第74回 コップにオシッコの続報」
若年性認知症の兄の不可解な行動のなかでも、妹のツガエマナミコさんが一番衝撃を受けたのは、洗面所のコップに入っていた謎の液体の正体を知ったときだ。なぜ、そういうことになったのか、理由も原因もわからぬまま今日に至ったツガエさんだったが、このたび、またもっとショックな出来事が発覚するのだった…。
「明るく、時にシュールに」、でも前向きに認知症を考えます。
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消えた洗面所のコップの行方
先日、電車に乗りましたところ不思議な光景を目にいたしました。お昼間のわりと空いた時間でございましたが、スーツをお召しになった、ふくよかな体形の中年男性がお1人、車輛と車輛の間の空間でこちらを向いてしゃがんでいらしたのです。「キモチワルッ」と思いましたが、時代はコロナ禍。おそらくですが、あの空間を個室と見立てた感染対策だったのでしょう。「そこまでして自分の身を守りたいか」と見知らぬ中年男性をマスクの下で嘲笑った心の狭いツガエでございます。
じつはここ最近、コップにオシッコ(第69回をご参照ください)の続報が届いております。
何事もない日が続き、そろそろ何かありそうだと思ったある日の朝、洗面所に行くと、例のコップが忽然と消えておりました。隣接する浴室や引き出しなど、ざっと見まわしましたがどこにもなく、きっと兄が自室に持って行ったに違いないと思い(それもかなり気持ちの悪い話ですが)、「そのうち返しておくだろう」と高をくくっておりました。
その日は仕事で出かけ、帰宅後もそのことをすっかり忘れており、翌朝になってコップが消えたままであることに気づきました。
「おはようさん」と部屋からお出ましになった兄に不信な動きはありません。いつものようにいつもの朝が始まったというのに、消えたコップの行方が気になって仕方がないわたくしはお食事が喉に通りませんでした。もし、兄の部屋で万が一にもコップの中身がひっくり返っていようものなら、お掃除するのはこのわたくしです。なんとしてもコップの在りかを突き止めたいと思い、朝食後、兄が洗面所でお髭をお剃りになっている間に、こっそりお部屋を覗かせていただきました。すると、なんと、お仏壇の前に黄金に輝く液体で八分目まで満たされたあのコップが鎮座しているではありませんか!
絶句いたしました。心が折れました。バキボキのコナゴナでございます。
「あ~、ここまできたか」と思った途端、悲しみの反動でブラックツガエが舞い降りてきて、わたくしの耳元でこうささやいたのです。
~「自分でコップを見つけさせてみよう」~
こうなれば実験です。
頃合いを見計らって洗面所に行き、テレビのボリュームに負けない大きめの声で「ねぇねぇ、いつもここに置いてあるコップ知らない?」とリビングの兄に問いかけました。すると「え~?コップ?コップってどんなの?」と言いながら洗面所まで兄がやってきました。
一緒にコップを探しつつ「いつもさ、この時計の前に置いてあるんだけど…」と言ってみましたが、反応は「どんなのだっけ?」と思い出せない様子。わたくしが手でサイズを示してコップの説明をするのですが、まったくピンとこない兄は、ふむふむおっしゃりながら時計をどかしてみたり、水を出してみたり…。そのうち「え?なんだっけ?」と何を探しているかも忘れてしまうありさま。粘り強くコップを探してもらっても埒があかなかったので、勇気を出して「お部屋に持って行ってないかな?」と言ってみました。
はじめは「ないよ」と即答した兄ですが、そのうちに自分の部屋のドアを開け「ここかなぁ」と言いながら、部屋をゆっくりと見渡しはじめました。そしてついに仏壇の前にある例のコップを見つけて「これ?」と持ち上げこちらに振り返りました。
「それそれ」とわたくしが言うと、やおら「何が入っているんだろう」と鼻をコップに近づけました。「お茶?コーヒー?」とわたくしに訊くので「知らないけど、洗面に流してくれる?」とお願いし、兄が洗面所でコップを洗うまで見とどけました。本当はトイレに流してほしかったのですが、なんとなく言えませんでした。
その後も何度か洗面台に黄金のコップは出現しております。2日前は「これ、捨ててもいいのかな」と中身いっぱいのコップをリビングまで持ってきたので、キッチンに立ちはだかり「こっちに持って来ないで、洗面所で洗って」と慌てました。
「何これ、お茶?」と先日と同じことを言う兄に「オシッコだと思うよ」とはついに言えませんでした。言ったとしても数日後には忘れることが予想され、自尊心が傷ついたことだけが残ってしまう恐れがあるので、たぶんこれからも言えない妹でございます。
文/ツガエマナミコ
職業ライター。女性57才。両親と独身の兄妹が、6年前にそれぞれの住処を処分して再集合。再び家族でマンション生活を始めたが父が死去、母の認知症が進み、兄妹で介護をしながら暮らしていたが、母も死去。そのころ、兄の若年性認知症がわかる(当時57才、現62才)。通院しながら仕事を続けてきた兄だったが、ついに退職し隠居暮らしを開始。ハローワーク、病院への付き添いは筆者。
イラスト/なとみみわ