84才、一人暮らし。ああ、快適なり<第6回 好色のすすめ>
才能溢れる文化人、著名人を次々と起用し、ジャーナリズム界に旋風を巻き起こした雑誌『話の特集』。この雑誌の編集長を、創刊から30年にわたり務めた矢崎泰久氏は、雑誌のみならず、映画、テレビ、ラジオのプロデューサーとしても手腕を発揮、世に問題を提起し続ける伝説の人でもある。
齢、84。歳を重ねてなお、そのスピリッツは健在。執筆、講演活動を精力的に続けている。ここ数年は、自ら望み、一人で暮らしている。そのライフスタイル、人生観などを矢崎氏に寄稿していただき、シリーズ連載でお伝えする。
今回のテーマは、「好色のすすめ」。
悠々自適独居生活の極意ここにあり。
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祖母は103才、叔父は106才まで元気に生きた
何と言っても、今、一番心配しているのは、自分が長生きするのではないかということである。つまり、とてつもない長生きをしてしまったらどうしようと不安でならない。
現在は、体内時計も何とか時々故障することはあっても動いてい る。それでも、少しずつ衰えてはきているように思うのだが、どこかでうまくストップできないものか。
というのも、私の母方の祖母は103才、父方の叔父は106才まで 元気に生き延びたのである。大したものだが、この実例が重くのしかかる。
祖母のテツは昭和天皇が亡くなった時、そのニュースをテレビで観ながら、「わたしは三代もの天皇の死を体験した。今度で最後にしたい」と 、宣告して、その日から絶食を始めた。そして、7日目に老衰で死んでしまった。いくら止めても、水以外は口にしなかったのである 。それでも毎日、新聞とテレビは熱心に観ていた。実にアッパレだった。
叔父・物集高量の話
叔父の物集髙量(もづめたかかず)は、私の父親の義兄だったが、 幼い頃に患った小児麻痺が原因で、右足が不自由だった。そのため 日清、日露の戦争にも徴用されず、大学教授、新聞記者を経て物書きになり106才まで生きた。
とは言え、父親(物集高見)が帝国大学教授の頃に編んだ『群書索引』という学術書(日本の古代から現代に至るまでの、あらゆる文書の解説付索引書)が、日本中の学校、図書館、役所に収められて大富豪になった。それを元手にして、息子は放蕩無頼の人生を送ったのである。
酒はほとんど飲まなかったが、女遊びとギャンブルは半端じゃな かった。湯水の如く財産を使った挙句に、スッテンテンになり、第一回東京朝日新聞の懸賞小説に応募。初めて書いた小説『罪の命』が受賞 。何と賞金500円を獲得した。明治時代の500円は現在の5000万円くらいの価値だったらしい。
再び常軌を逸する遊びに現(うつつ)を抜かし、約束の第二作が執筆出来ないことから、5年目に朝日新聞の文芸部の社員になった。つまり見るに見かねて、またまたスッテンテンになった物集髙量を社員にしたわけだ。
その頃、夏目漱石、森鴎外、室生犀星などの原稿取りをやって、文士たちにも大いに可愛がられたらしい。囲碁、将棋、麻雀の好きな後輩の菊池寛とは親友になり、日本の競馬を創設するのに尽力している。
女房の八重(イトコ同士で私の父の姉)も賭博(ばくち)大好き人間ときているから、関東大震災の朝は警視庁の”ブタ箱”に夫婦で入っていて、釈放されたとたんに、日比谷公園『松本楼(まつもとろう)』で食事中に大地震に見舞われている。