《パーキンソン病の夫の介護》シンガーソングライター・イルカが語る苦渋の延命決断「嫌われてもいい」呼吸器に込めた願い
『なごり雪』などの大ヒットで知られるシンガーソングライターのイルカさん(75歳)は、3歳年上の神部和夫さんと21歳で結婚。プロデューサーでもあった和夫さんは38歳ころパーキンソン病を発症し、イルカさんはその後の闘病を長年、支え続けた。介護の中で下した苦渋の決断や、最愛の夫へ抱き続ける深い思いなどを語っていただいた。【全3回の第2回】
夫は「最愛の人」で「半身」のような存在
――イルカさんの才能を見出し、『なごり雪』をヒットさせたプロデューサーでもある夫の神部和夫さんは、どのような存在ですか?
イルカさん:初めて付き合った人で、その人と結婚したのですから、最愛の人でしょうね。出会いは18歳のときです。所属していた女子美術大学フォークソング同好会に、早稲田大学フォークソング倶楽部の部長だった彼がコーチとしてやってきたのが始まりでした。初対面のときから、ずっと前から知っているような懐かしい感じがして、前世でも一緒だったんじゃないかという感覚がありました。男の人というより、兄と妹みたいな、家族としてつながっている感じでした。
夫は父親が警察官というお堅い家で育ち、私の父はジャズマンで昼夜逆転の生活。まったく違う環境で育ったのに、感性がすごく近かったんです。私が何か言ってもあまり説明する必要がなく、すぐに分かってもらえました。私は男の人が苦手で「音楽をやっている人とは結婚しない」なんて言っていたんですが、最初からスッとなじめたのは不思議でした。
――結婚後、一緒に音楽をやっていくことになった経緯を教えてください。
イルカさん:実は私、結婚したら音楽をやめるつもりだったんです。父がサックス奏者で芸能界の厳しさを知っていたので、結婚したら普通のお母さんになると決めていました。それは彼にも伝えていたのですが、「一緒に歌わないか」と誘われて、振り返ってみればそれが彼のプロポーズの言葉だったんですね。
彼にはもともとプロデューサー志向があり、「プロデューサーとしてイルカの才能を花開かせたい」という思いもあって私と結婚したそうです。私は彼の声が大好きだったので、裏方に回ってほしくなかったのですが、結局、私が折れました。そして『なごり雪』を歌うことになったんです。
「イルカの半分はぼくだから」と仕事を辞めさせてくれなかった
――順風満帆に見えた二人三脚の生活の中、和夫さんに異変が起きたそうですね。
イルカさん:1986年頃、左手薬指のけいれんが止まらなくなったんです。彼はプロデューサーとして成功していて、秋元康さんの事務所やオフコースの事務所なども手伝っており、家に帰ってくるのは明け方という生活でした。「仕事が好きで、今ぼくは幸せなんだ」と言っていましたが、私とお義母さんは「仕事をセーブしないと危ないよ」と心配していました。
でも彼は病院が大嫌いで、検査にも行かなくて。指の震えがだんだんひどくなり、彼が責任を持って作っていたファンクラブの会報をやめていいかと言い出したんです。人に会うのが仕事だった彼が対人恐怖症みたいになり、外に出られなくなってしまいました。3年半くらい色々な病院に行っても「どこも悪くない」と言われ、それが余計にプレッシャーになっていたようです。
――3年半ほどかかり、パーキンソン病と診断された時のお気持ちをお聞かせください。
イルカさん:診断後に2人で家庭の医学の本を見て、「命にすぐ関わる病気ではないけれど、原因も特効薬もなく、徐々に体が動かなくなっていく」と記載されていて、覚悟しました。薬の副作用で幻覚が出るようになり、彼が1人で出かけて倒れ、救急車や警察にお世話になることもありました。私はコンサートを続けていた時期だったので常に見守ることはかなわず、いつもヒヤヒヤしていました。
私は「仕事をやめて家にいた方がいいんじゃないか」と言ったこともあるのですが、彼は「絶対にそれはダメだ。イルカの半分はぼくなんだから、仕事は辞めてくれるな」と言って、頑として聞きませんでした。
――最終的には、北海道のリハビリ病院に入ることになるんですよね。
イルカさん:病院嫌いの夫でしたが、知人の紹介で旭川にあるリハビリ病院に行くことになりました。先生においしいものを食べさせてもらったりして、彼はすっかりその雰囲気を気に入ったんです。リハビリの先生たちがみんな若くて、「神部ちゃん、今日も頑張ろうぜ!」なんて明るく声をかけてくれて。家ではお茶碗も持てない状態だった彼が、一筋の光を見つけたように「ぼくはここで頑張る」と言い出しました。
私も病院のそばに部屋を借りて、7年ほど2拠点生活をすることになりました。地元の農家や牧場の奥さんたちと友達になり、その方々に助けられました。いまでも交友関係があるのですが、北海道に行かなければ出会えなかった方々なので、不思議な縁だと思います。
「苦しんで窒息死してほしくない」嫌われるとわかっていてもくだした延命の決断
――介護を続ける中で、一番大変だった決断は何でしたか?
イルカさん:だんだん息もできなくなってきて、喉を切開して呼吸器をつけるかどうかの決断を迫られたときです。彼は「痛いことは嫌だ、自分の口でものが食べられなくなるのは嫌だ」とずっと言っていました。でも、呼吸ができなくて土気色になって苦しんでいる姿を見て、「嫌だということはやらないと決めてきたけれど、このまま窒息死していくのは黙って見ていられない」と思いました。
嫌われても仕方がないという覚悟で、先生に手術をお願いしました。手術後、肌色がピンクになってスーッと息をしているのを見てホッとしましたが、彼は2か月くらい私の目を見てくれませんでした。やはり、嫌なことをされたという思いがあったのでしょう。息子も含めて家族で話し合って決めたことですが、きつい判断でした。
――和夫さんの介護に対して、後悔はありますか?
イルカさん:夫に対しては後悔だらけです。ただ、「ぼくはイルカと一緒になれて幸せだった」と言ってくれていたから、その言葉を信じて支えにしています。彼が敷いてくれたレールがあるから、私は55周年まで歌ってこられました。彼に先立たれて寂しくないと言ったら噓になりますが、ありがたい存在として、いつも一緒にいる感覚が今でもあるんです。
◆シンガーソングライター・イルカ
いるか/1950年12月3日、東京都生まれ。女子美術大学に在学中からフォークグループを結成、1971年「シュリークス」加入を経て、1974年にソロデビュー。翌年リリースした『なごり雪』が大ヒットを記録し、以後、世代を超えて愛されるシンガーソングライターとして活躍を続ける。絵本作家、IUCN(国際自然保護連合)国際親善大使としての顔も持ち、自然環境保護活動にも尽力。ラジオパーソナリティを務めるニッポン放送「イルカのミュージックハーモニー」は放送開始から35年。
撮影/黒石あみ 取材・文/小山内麗香
