《21歳で介護を開始》シンガーソングライター・イルカが義父母との同居介護で見つけた“お互いが笑顔になれる距離感”と「後悔のない看取り」
1970年代からシンガーソングライターとして活躍し、『なごり雪』などのヒット曲で知られるイルカさん(75歳)。21歳で結婚し、同時に夫の両親を京都から呼び寄せて東京での同居生活をスタートした。元警察署長で厳格ながらも優しい義父と、長年夫を支え続けた義母。多忙な音楽活動と育児を両立させながら、義母の最期には病室に泊まり込んで付き添ったという。義父母との温かい思い出や看取り、そして「後悔はない」と語る家族のあり方について聞いた。【全3回の第1回】
料理が苦手な20代の嫁に「カツはうまかったですな」。厳格な義父との温かい日々
――イルカさんが初めて介護や見守りに向き合われたのは、義理のお父様だったそうですね。どのような状況だったのでしょうか。
イルカさん:私が結婚したのは21歳のときなのですが、その少し前、大阪万博があった年に京都に住んでいた夫の両親を訪ねたんです。まだ結婚するとも伝えていなかったのに、とても温かく迎えてくださいました。
お義父さんは警察署長まで務めたような人です。在職中は官舎に政治家さんや板前さんが家に来て、毎晩のように宴会が開かれる生活だったそうで、体を壊して定年後は恩給で暮らしていました。お義母さんがずっと面倒を見ていて、お義父さんは外にはほとんど出られない状態でした。
結婚してから、義父母には東京に出てきてもらい、私たちのせまいマンションで同居を始めました。お義父さんは無口でしたが、私と同じ寅年ということもあって、すごく可愛がってくれたんです。私が京都へ遊びに行ったときの話を気遣ってしてくれたり、とても優しい人でしたね。
――同居生活が始まって、生活はどのように変わりましたか?
イルカさん:まだ私は20歳そこそこだったので、主な介護はお義母さんに任せて、私は食事担当になりました。お義母さんは目が少し悪かったので、料理の負担が減っただけでも喜んでくれました。ただ、私は料理が上手なわけでもなかったので、必死に料理本を読んで、煮物などを作っていました。
お義父さんもお義母さんも、何を作っても「おいしい、おいしい」と食べてくれたので、うれしかったですね。お義父さんは意外と油っこいものが好きで、一口カツを揚げたときには、わざわざ私のところまで来て「カツはうまかったですな」って言ってくれたんです。お年寄り向けのものばかりではなくて、そういうメニューもたまに入れた方がいいんだなと学びました。
死に目に会えなかった後悔を救ってくれた、夢の中での「ありがとう」
――当時は、お義母様がお義父様の身の回りのお世話をされていたのですね。
イルカさん:そうです。今から50年くらい前のことですから、ヘルパーさんに来てもらうという発想もないし、妻が夫の親の介護をするのが当たり前の時代でした。お義母さんは私が知るずっと前から長いこと介護をしていたので、ものすごく疲れていたと思います。
私たちが結婚して数年後、私が24~25歳くらいの時にお義父さんは75歳で亡くなりました。ちょうど私と夫は仕事で地方に行っていて、死に目に会えなかったんです。それに、まだ息子が生まれる前だったので、孫の顔を見せてあげられなかったことが、お義父さんに対して申し訳なかったです。お義母さんにそう伝えたら、「あなたたちが一緒に住んでくれてお父さんはとっても喜んでいたから、それだけで十分よ」と言ってくれました。
――お義父様が亡くなられた後、不思議な体験をされたそうですね。
イルカさん:お義父さんが亡くなってから2、3週間くらい経った頃、私の夢にお義父さんが出てきたんです。茶色いスーツをきっちり着て、ベレー帽をかぶっていました。一緒に歩きながら「お世話になりましたね」と声をかけてくれて。私が「最期に立ち会えなくて、すみませんでした」と謝ると、「そんなことは気にしないで。ありがとう」と言ってくれたんです。
お義父さんが「こっちに帰るから」と言うので、「私も中に入ります」と伝えたら、「ここは入っちゃいけませんよ」と。門の奥には土の山があって、そこから煙がフワフワと出ているのが見えました。今から思うと、天国だったのかなという気もします。
ものすごくリアルな夢だったので、夫に話しました。夫はクールな人なのですが、それを聞いてボロボロ泣き出したんです。「親父は無口な人だったけど、三男の俺と一緒に住んでくれたことに対して、『ありがとう』と言いたかったんだと思う。夢じゃなくて、本当に会いに来てくれたんだよ」って。お義父さんは尊敬できて大好きな人でした。
――お義父様が亡くなられた後は、お義母様と同居を続けられたのですね。
イルカさん:はい。お義父さんが亡くなってから15年くらい、お義母さんと一緒に暮らしました。その間に私の息子の冬馬も生まれました。お義母さんはすごくふくよかになっていったので、それまでの介護がいかに大変だったのかと改めて思いました。そこからお義母さんは大好きな詩吟を始めて、週に何回か詩吟の教室に通っては家で練習して楽しんでいました。
私の母と一緒に孫の世話をしてくれるようになってからは、晩酌をするようになったんです。明治生まれの人ですから、「女がビールなんて」という封建的な時代を生きてきた方です。ずっと堪えていたものを解放できたような感じで、よく笑って冗談も言うようになりました。
病室に泊まり込んでの付き添い。「天国に行ったら幸せを祈り続けるからね」
――その後、お義母様の体調に変化があったのでしょうか。
イルカさん:お義母さんは50代頃から目が悪くなったので、出かけるときは私が必ず手をつないで歩いていました。亡くなる1か月半ほど前に「お腹が痛い」と言い出して、検査入院をしたところ、がんだと分かりました。ただ、当時はまだ本人に告知する時代ではなかったので、お義母さんには盲腸だと伝えていました。
手術をしてから、お義母さんはほぼ寝たきりになりました。8月は私は仕事を休む時期だったので、お義母さんのベッドの横に簡易ベッドを置いてもらって、ずっと病院に泊まり込んでいました。
――意識がなくなる前、どのような言葉を交わされたのですか?
イルカさん:お義母さんは温泉が好きでよく一緒に行っていたので、「早くよくなって、また温泉行きましょうね」と声をかけると、「あらうれしいわ、ハワイも行きたいわね」と喜んでくれて。
でも、だんだん自分の体が動かないことに気づき、退院できないんじゃないかと思い始めたんでしょうね。夜中に急に、「私が天国へ行ったら、としえさん(イルカさんの本名)の幸せをずっと祈り続けるからね」と言ってくれたんです。「ありがとうございます。じゃあ私は幸せになれますね」と2人で笑い合いました。いつもそういうことを言ってくれて、ありがたかったですね。
――最期はどのように見送られたのでしょうか。
イルカさん:意識が朦朧として寝たきりになってからも息子の冬馬と、お義母さんが好きだった『春の小川』などの唱歌を歌ってあげると、パッと目を開けたりしていました。最期は夫とお義兄さん夫婦と私の4人で見守るなか、苦しむこともなく静かにスーッと息を引き取りました。82歳くらいでした。
――お2人を見送られて、ご自身のなかで後悔はありますか?
イルカさん:後悔はないですね。20代の頃から一緒に暮らして、お義父さんの笑顔も見られたし、お義母さんも晩年に自分らしく生きていけたんじゃないかなという気がしています。
ずっと暮らしていた京都から、晩年になって東京に出てくるというのは、義父母にとってものすごく勇気のいる決断だったと思います。私たちと一緒に暮らすと決めてくれた時点で、「絶対に幸せにしなきゃ」とずっと思っていました。とてもいいお付き合いができたと思っています。
◆シンガーソングライター・イルカ
いるか/1950年12月3日、東京都生まれ。女子美術大学に在学中からフォークグループを結成、1971年「シュリークス」加入を経て、1974年にソロデビュー。翌年リリースした『なごり雪』が大ヒットを記録し、以後、世代を超えて愛されるシンガーソングライターとして活躍を続ける。絵本作家、IUCN(国際自然保護連合)国際親善大使としての顔も持ち、自然環境保護活動にも尽力。ラジオパーソナリティを務めるニッポン放送「イルカのミュージックハーモニー」は放送開始から35年。
撮影/黒石あみ 取材・文/小山内麗香
