コラムニスト吉田潮さん、特養に入居していた認知症の父親の在宅介護を決心するまで
ドラマ評論家でコラムニストの吉田潮さんは、現在要介護4の父を在宅介護している。これまで「介護はプロに任せる」がモットーだったが、父が介護施設に入居して7年目、思いも寄らない事態に直面して――。【全3回/第1回】
教えてくれた人/吉田潮さん
吉田潮(よしだ・うしお)ライター・イラストレーター・コラムニスト。
1972年生まれ。千葉県船橋市出身。法政大学法学部政治学科卒業。健康誌や女性誌の編集を経て、2001年よりフリーランスライターに。週刊新潮、東京新聞、小学館kufura、NHKステラnet,、プレジデントオンラインなどで、主にテレビドラマのコラムを連載・寄稿。NHK「ドキュメント72時間」の番組紹介イラストコラム「読む72時間」(X)や、「聴く72時間」(Spotify)を担当。著書『くさらないイケメン図鑑』、『産まないことは「逃げ」ですか?』『親の介護をしないとダメですか?』『ふがいないきょうだいに困ってる』など多数。
在宅介護を決心した理由
「親の在宅介護はしない」とキッパリ宣言していた吉田潮さんだが、現在父は実家で暮らしている。
80才の母と、姉でイラストレーターの地獄カレーさんとともに、今年84才を迎える父(愛称は“まあちゃん”)の在宅介護を選択。吉田さんは、片道1時間30分~45分かけて実家に通い、家族とともに父の在宅介護を担っている。施設から在宅に切り替えた経緯について、吉田さんが振り返る。
運命の分かれ道だった「入院」
私の父は要介護4。7年間、特養で暮らしていたので、そのまま施設で穏やかに最期を迎えられるかな、なんて思ってはいたんです。でもそうは問屋が下ろさず、医療ケアが必要な入院をすることになりました。
入院の理由は、皮膚の免疫力が下がって、ちょっとしたことで水泡ができたり、あざになったり、出血したりする難病である「類天疱瘡(るいてんぽうそう)」です。
今年の始め頃からひどくなっていて、専門的な治療を受けるために3週間入院しました。
ただ、病院は介護をしてくれるところではないから、病気が治ったら退院しなくちゃいけない。この入院が、ある意味運命の分かれ道でした。
皮膚はきれいに治ったのですが、入院したら一気に身体機能が落ちて、完全に寝たきりになり、呂律もあやしくなってしまいました。入院する以前は介助があれば車椅子には座れて、会話もちゃんとできていたのに。入院を機に、嚥下機能も落ちてしまいました。入院って、怖いですね。
延命治療するか、しないか?
退院して一度は施設に戻ったものの、今度はコロナにかかってしまいました。誤嚥性肺炎を起こしたことがあったのですが、コロナの後遺症で嚥下機能がかなり低下して、たん吸引をしないと窒息してしまう、そのままだと死んじゃう、みたいな状況になってしまって…。
この時点で、施設からは「(家族は居室に)24時間入れるようにします」と言われました。要するに、「いつ死んでもおかしくないから、覚悟してくださいね」ということだったんだと思います。「これはいよいよ看取りの段階に入ったんだな」と感じました。
その後、肺炎で再び緊急入院。医師からは、いざという時に延命措置をするかどうかを尋ねられましたが、私たち家族は、何年も前からそれはやらないと決めていました。
延命措置の一つに、体に栄養を送り込む手段(中心静脈栄養)をとるかどうか、という判断があります。静脈に管を入れたり、お腹に穴を開けたりして、体に必要な栄養を“注入”するわけですね。でも父はとにかく食べることが好きな人だったので、口からものが食べられなくなったらもう寿命だね、と母や姉とは話し合っていました。
緊急の時に心臓マッサージをやるかどうか、という判断もありました。心臓マッサージをすれば、高齢者の場合ボキボキに肋骨が折れる可能性もある。それも「やりません」と答えました。どんな治療であれ、本人が苦痛を感じるようなことはやらない。病院側とは、基本的に延命措置は望みません、という話をしました。
退院しても施設には戻れない事情
たんの吸引などの医療ケアに加えて、食事や排泄などの介助もが必要です。そんな状況ですが、コロナが治ったら退院して施設に戻れると思っていました。しかし、病院のソーシャルワーカーからは、「施設に戻るのは厳しいかもしれない」と言われました。
特養では、たん吸引のケアがそれほどきめ細やかにできない可能性があるので、療養病棟のある病院(療養型病院、療養病床ともいう)をすすめられました。
療養型病院は、介護と看護が必要な人が入るところです。つまり、父のように、医療ケアと介助が両方必要な、ほぼほぼ寝たきりの高齢者が入院する場所。ソーシャルワーカーさんが、いくつかピックアップするので、見学に行ってみてくださいと言われました。
見学してみてわかったこと
姉は、だいぶ前から「まあちゃん(父)がいよいよとなった時は、家で看取りたい」と言っていましたが、その判断をいつどのタイミングでするのかは、モヤッとしたまま。具体的には何も見えていませんでした。
姉と私は、まずは療養型病棟を見学してみることにしました。
ここで始めて知ったのですが、療養型病院はそもそも数が少なく、どこも人手不足だということでした。介護と看護が必要な患者のケアをするには人手が必要です。とくに父は、食事の度に介助が必要で、一度の食事に最低30分~40分はかかる。それにスタッフが1日3回かかりっきりになるのは大変なので、病院側としては中心静脈栄養をすすめるのだと思いました。
最初に見学した病院では、いきなり中心静脈栄養から説明されました。私たちが「父はまだ口から食べられます」と言っても、「いずれそういう形になると思うので(ならば最初から)」という感じ。食事介助はやりたくない空気感を全面に押し出してくる。その時点で、姉と私は「ここはないな」と即決しました。
2軒目の病院では、完全に寝たきりだけの人ばかりが集められた7人部屋を案内されました。父のようにまだ食事が口からできて、面会を希望する家族がいる場合はおすすめできないと伝えられました。病院の規則では、面会は週1回、30分。それはあまりにも少ないと感じました。
在宅介護を決断した瞬間
病院それぞれのポリシーがあるのは当然ですが、どこも経営難や人手不足が深刻だということ。父には手厚いケアは望めないということがわかってきました。
だけど父はまだ口から食べられるし、たん吸引をしっかりすれば、最期まで快適に過ごせる場所があるはず。ここに入院させてしまうと「管につながれ、死を待つばかりなのではないか」と…。
あと3軒候補がありましたが、これ以上見学してもどこも事情は同じだろうと思いました。こうして私たち家族は、まあちゃんに家に帰ってもらうことを決めました。在宅介護の始まりです。(つづく)
写真提供/吉田潮さん 取材・文/吉河未布