『鎌倉殿の13人』25話「だから、しみじみするな!」源頼朝(大泉洋)最期の1日を考察
中盤に差し掛かってきたNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』25話、源頼朝(大泉洋)が遂に! 時の権力者の最期の1日を描いた「天が望んだ男」(副題)の回を、歴史とドラマに詳しいライター、近藤正高さんが、歴史書を紐解きながら考察します。
阿野全成(新納慎也)の助言
『鎌倉殿の13人』は第25回とほぼ折り返しに来たところで、やっぱりというか、とうとう頼朝(大泉洋)が死んでしまった。一体、どんなふうに死ぬのか。通説どおり落馬か、それとも誰かに殺されるのか。いずれにせよ、ろくな死に方はしまい……と思って観ていたのだが、予想に反して、その最期はきわめて穏やかなものであった。
三谷幸喜は最初に手がけた大河ドラマ『新選組!』(2004年)で、各回を基本的に一日単位でまとめていた。今回はそれを思い起こさせるように、頼朝の最期が建久9年(1198)12月27日という一日に絞って描かれた。
大姫が早世して以来、頼朝は自分にも死が迫っているとの不安にさいなまれていた。その日も、弟の阿野全成(新納慎也)を呼び、どうすれば死を避けられるのか相談する。全成も最初のうちこそ、陰陽五行では相性のいい色とよくない色があり、鎌倉殿の場合、平家の赤がそれにあたるので避けるべきときちんと助言していたが、頼朝があまりにしつこく訊いてくるため、そのあとはつい出まかせで答えてしまう。
頼朝も頼朝で、このとき全成に言われたこと――久方ぶりの者が訪ねてくるのはよくないことの兆し、自分に恨みを持つ者の縁者には気をつける、昔を振り返ったり、人に先を託すのは避ける、仏事神事は欠かさぬこと、赤子を抱くと命を吸い取られる――をすっかり信じ込み、これら禁忌に触れそうになるたびうろたえるのだった。それは人間不信の裏返しでもあったのだろう。5年前の曽我事件についても、時政(坂東彌十郎)が関与していたのではないかといまだに疑い、義時(小栗旬)に「北条は信じてよいのだな」と再び念を押す。
北条家ではこの日、3年前に亡くなった時政の四女を追善し、夫の稲毛重成(村上誠基)が相模川に橋を架けたので、一門がそろって法要を行うことになっていた。頼朝も義時から出席を求められ、遠方ながら渋々出かけることになる。何しろ全成から「仏事神事は欠かさぬこと」と言われたのだから(出まかせだけど)、そのとおりにせねばならない。
この日はまた、嫡男の頼家(金子大地)が、比企家の娘・せつ(山谷花純)とのあいだに一幡という男子が生まれたので、乳母父の比企能員(佐藤二朗)と道(堀内敬子)夫妻、それにせつの祖母である比企尼(草笛光子)ともども鎌倉の御所へ挨拶にやって来た。本来なら頼朝は初孫の誕生を喜ぶべきところだが、全成の言いつけを守ろうとすると赤子を抱くことができない。
『真田丸』でも草笛光子は
比企尼の様子も変だった。頼朝が先の範頼処分での一件について改めて謝ったにもかかわらず、まったく返事をしてくれない。いくら声をかけても反応がなく、よっぽど怒り心頭なのだろうと落胆した頼朝はそのまま辞去する。もっとも、じつは尼は目を開けたまま寝ていただけだった。尼役の草笛光子といえば、6年前の三谷大河『真田丸』では、やはり大泉洋が演じた真田信之の祖母役で出演し、その臨終の場面では一族に看取られながら一旦は息を引き取るも、フェイントをかけるように再び起き上がって皆を驚かせたことが思い出される。今回もそれに匹敵するオチのつけ方であった。
なお、頼家はせつと子供を儲けながらもまだ結婚していなかった。それというのも、彼にはつつじという別の思い人がおり、そちらを正室に迎えたかったからだ。つつじは源氏の血筋であり、家柄からすれば妻とするに申し分なかった。頼朝も、そのことを義時を介して伝えられ、おおいに喜ぶ。ただ、ここにもまた比企への不信感が絡んでいた。実際、比企能員は、自らの孫にあたる一幡がいずれ鎌倉殿の地位を継ぐことをひそかに狙っている気配であった。
このほか、全成にあれこれ助言を受けてからというもの(出まかせだけど)、頼朝はまるで神仏に試されるかのごとく、しばらく会っていなかった千葉常胤(岡本信人)と土肥実平(阿南健治)が訪ねて来たり、義時の弟・時連(瀬戸康史)にほおずきで執務室を真っ赤に飾られたりといった出来事に見舞われる。そのたびに彼は慌てふためくわけだが、本人が真剣になればなるほど滑稽であり、同時に悲哀もちょっぴり感じさせた。
「死ぬかと思った」
頼朝は相模川の法要へ、縁起を担いで、方違え(忌むべき方角を避けて外出すること)をして向かうことにする。その途中、梶原景時(中村獅童)の勧めもあり、和田義盛(横田栄司)の館に立ち寄った。義盛は同居する巴御前(秋元才加)にも頼朝へ挨拶するよう言うが、過去に義仲を討たれた恨みから会いたがらない。結局、頼朝は巴と会わないまま一旦は館を発つのだが、途中の道が八田知家(市原隼人)の指揮のもと工事の最中だったため引き返さざるをえなかった。おかげで再訪した義盛の館で、ついに巴との面会がかない、謝罪することもできた。
ようやくたどり着いた相模川の法要で頼朝は、巴に続き時政の妻・りく(宮沢りえ)とも初めて話す機会を得た。ここでも気がかりは時政の本心だった。時政に座を外させ、二人きりにしてもらい、時政は自分を殺して鎌倉を我が物にしようと考えているのではないかと訊ねたのだが、りくの答えは「そんな大それたこと、考えてくれたらうれしいのですが」。そこへ時政が酒瓶と小皿を持って戻って来る。久々に酒を酌み交わしながら、頼朝が「不満があれば申せ」と改めて問いただすと、時政は笑いながら「そんなもんあるわけねえでしょう。こんないい思いさせてもらってるんだ。腹の立つことなんて何一つございません」と屈託なく答えた。そして「わしは政子に感謝しとるんです。いい婿と縁づいてくれたなって」としみじみ口にするのだった。
と、そのとき、頼朝が振る舞われた餅で喉を詰まらせてしまう。異変に気づいて皆が駆けつけると、義時が背中を強く叩いて餅を吐き出させ、事なきをえる。前回放送の予告に出てきた「死ぬかと思ったー」のセリフはこのとき飛び出した。
それぞれの場所で聞く鈴の音
このように終始、コメディタッチで展開してきた第25回はいよいよクライマックスに入る。外に出て、義時が水を汲んでいるあいだ、頼朝は政子(小池栄子)と夫婦水入らずで話をする。政子が頼家の縁談から「おなごに手が早いのは親譲り」と口にするので頼朝が「言うのう」と返すと、「よいのです。あなたがおなご好きでなかったら、私はあなたと結ばれることはありませんでしたから」と、これまたしみじみさせることを言う。そこで頼朝がハッとなり、「なぜそうやってしみじみするのだ。しみじみするのが苦手だと知っておるであろう」と愚痴ってからの二人のやりとりが絶妙だった。
政子「しみじみさせたのはそちらでございましょう」
頼朝「そっちがしみじみしたから、こっちがしみじみしたのだ」
政子「あなたがしみじみしたことおっしゃるから、私もつい……」
頼朝「だから、しみじみするな!」
「しみじみ」という言葉をここまで繰り返されたらもう笑うしかない。夫婦が絆を確認したところで、義時が水を汲んだ竹筒を持って戻って来る。そのタイミングで、頼朝は「おまえたちに言っておくことがある」と急に改まると、源氏が武家の棟梁としてこの先100年、200年と続けていくため、その足がかりを頼家がつくるのだとして、彼のことを政子と義時に託すのだった。頼朝自身は今後、鎌倉殿を頼家に継がせて大御所になるという。
このあと、政子が座を外すと、義時も行こうとするので、頼朝は「小四郎」と呼び止めたかと思うと、「わしはようやくわかってきたぞ」「人の命は定まっておる。抗ってどうする。甘んじて受け入れようではないか。受け入れたうえで好きに生きる。神仏にすがって、おびえて過ごすのは時の無駄じゃ」と、さばさばとした表情で打ち明けた。唐突にそんなことを言われて義時は戸惑いながらも「それがようございます」と返す。そして思い出したように「鎌倉殿は昔から、私にだけ大事なことを打ち明けてくださいます」と言うのだった。このとき義時の頭には、頼朝が平家打倒に向けて挙兵の意志を初めて明かしたときのことが浮かんでいたはずである。
頼朝は、義時に久々に一門で集まったのだからゆっくりしていけと言って、ひと足先に帰路に就いた。安達盛長(野添義弘)の引く馬に揺られながら、しばらく伊豆の流人時代を思い出していたが、「わしが初めて北条の館に来たとき……」と言いかけたところで、突然黙り込む。そして急に体に異変を感じると、そのまま馬から転げ落ちた。この瞬間、登場人物たちがそれぞれの場所で鈴の音(それは頼朝がこの日ことあるごとに幻聴として聞いていたものだ)を耳にして、何事かを察したかのようなそぶりを見せる。盛長は倒れた頼朝に駆け寄ると、「佐殿!」と、「鎌倉殿」ではなく昔の呼び名で声をかけるのだった――。
三谷幸喜は、高校時代に熱心に見ていた大河ドラマ『草燃える』(1979年)で石坂浩二演じる頼朝が落馬した瞬間、ほかの人たちは何をしていたのだろうと疑問を抱き、自分ならそれを描くと考えていたという。それが今回、実現したわけである。
『吾妻鏡』の欠落部分に
改めて今回を振り返ると、頼朝は全成に言われたことをことごとく破ってしまったことに気づく。久しく会っていない者にも、巴御前のような自分に恨みを持つ者の縁者にも会ったうえ、昔をさんざん振り返り、義時と政子には先を託したあげく、もう神仏にはすがらず好きに生きると宣言までしてしまった。その直後に最期を迎えただけに、全成の言うことが珍しく的中したともいえる。だが、天罰が下ったというよりは、むしろ天は頼朝をこれまで背負ってきたものから解放したといったほうがふさわしいのかもしれない。
なお、歴史上は頼朝の死にはいまなお謎が残る。通説では落馬で亡くなったとされるが、『吾妻鏡』には、頼朝は相模川の橋が完成した供養に出かけた帰りに落馬して間もなく亡くなったとだけあり、死因が落馬によるけがだったとは断定できない。一方で京の公家たちの日記には、頼朝は病死であったと記されていたりする。
そもそも『吾妻鏡』には、頼朝が大姫入内のため上洛した翌年、建久7年(1196)の1月から、ちょうど彼の亡くなった建久10年1月まで3年分の記事がまるまる欠落しており、その死去に関する直接の記述はない(相模川橋供養の日付はほかの史料によって伝えられる)。先の落馬についても、じつに彼の死から13年もあと、源実朝が将軍となっていた建暦2年(1212)2月28日のくだりにようやく出てくる。
なぜ、頼朝死去の時期の記事が欠落しているのか? これについて江戸時代後期には、『吾妻鏡』を愛読していた徳川家康が意図的に破棄したからだという説がまことしやかに広まっていたという。もっとも、当時の幕臣で北方探検家としても知られる近藤重蔵は、家康の時代より200年も前の『吾妻鏡』写本にも当該の部分は存在しないことを理由に、この説を否定している(川合康『源頼朝――すでに朝の大将軍たるなり』ミネルヴァ書房)。
それでも、こうした説が出てきたこと自体が興味深い。家康が頼朝死亡の記事を破棄させたのはウソだとしても、頼朝に心酔して手本としていたのは事実だろう。周知のとおり、来年の大河ドラマ『どうする家康』ではその家康が主人公となる。ひょっとすると『鎌倉殿の13人』の最終回では、松本潤演じる家康が『吾妻鏡』を読むシーンが登場して次回作へとつなげるのではないか……ふと、そんな妄想をしてしまう。
思わず先走ってしまったが、『鎌倉殿の13人』はそのタイトルからすれば、頼朝のパートはあくまでドラマのプロローグにすぎない(これは作者の三谷自身もはっきり言っている)。頼朝亡きあと、義時たちは果たしてどう動いていくのか。いよいよ本編が始まろうとしている。
文/近藤正高 (こんどう・ まさたか)
ライター。1976年生まれ。ドラマを見ながら物語の背景などを深読みするのが大好き。著書に『タモリと戦後ニッポン』『ビートたけしと北野武』(いずれも講談社現代新書)などがある。