朝丘雪路さん最期の病床 往年スターとの思い出話を繰り返す
日本画家の伊東深水を父に持ち、3才から日本舞踊を始めた朝丘さんは、1952年に宝塚歌劇団に入団し月組の娘役として活躍。1955年の退団後は女優や歌手、日舞の家元として活動した。1960年代には深夜番組『11PM』(日本テレビ系)で司会・大橋巨泉さん(享年82)のアシスタントとして人気を集め、大橋さんが名付けた「ボインちゃん」という豊かなバストの朝丘さんのニックネームは当時の流行語にもなった。
1973年に津川と結婚し、翌1974年に長女・真由子が誕生した。以来、おしどり夫婦として30年以上連れだったふたりだったが、2008年末から別居を始めた。理由は津川が経営していた玩具事業で6億円もの負債を抱え、その返済のために、一家が住んでいた朝丘さん名義の世田谷の豪邸を売却したためだった。
「朝丘さんの父・伊東深水氏の作品も、借金返済のためにほとんど売り払ってしまいました。その後、津川さんは都内の別の場所に借りた一戸建てで、朝丘さんは湾岸地区にあるタワーマンションで暮らしていました。病気がわかってからも別居は続いていて、朝丘さんの面倒は真由子さんが一手に引き受けている状態でした。夫婦はあまり顔を合わせることもなかったんじゃないですかね。津川さんにご家族の近況を聞いても“妻も娘も自立した”としか言わないほどでしたから」(別の芸能関係者)
その間にも、朝丘さんの症状は刻一刻と進んでいった。
「今から2年ほど前、インタビュー取材を申し込んだら、体調が優れないから対応するのが難しいと断られたことがあったんです。それならと、書面でのコメントをお願いしても、それも難しいと。自分の考えを言葉にすることさえ難しい状態だったようです」(テレビ局関係者)
自分がどんな人生を歩んできたか。その記憶も、朝丘さんの頭から少しずつ消えていった。別の芸能関係者は、朝丘さんの「最期の病床」を明かす。
「石原裕次郎さんや萬屋錦之介さんなど、往年のスターの思い出話ばかり、何度も繰り返し話していたそうです。一方で、自分がかつて宝塚に所属した女優だったことや、『ボインちゃん』のニックネームで人気を博した頃の記憶も薄れていってしまったようで…。テレビの前でうずくまるようにして一日を過ごすことが多くなっていたといいます」
朝丘さんは、津川や家族に看取られながら、穏やかな表情でこの世に別れを告げたという。せめて天国で、またあの天真爛漫な笑顔を浮かべていることを願ってやまない。
※女性セブン2018年6月7日号
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