兄がボケました~若年性認知症の家族との暮らし【第262回 寝たきりの兄の介護】
認知症の兄を、在宅で介護しているライターのツガエマナミコさん。ベッドから動けなくなってしまった兄は、ついに特養への入所が決まりました。いつから入所できるかは、まだはっきりしていませんが、長く大変だったマナミコさんの介護生活も、大きな節目が近づいてきたようです。
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60代は介護に縛られることなく生きてみたい
最高気温が35℃以上の日を「猛暑日」と呼ぶそうですが、この夏はさらにその上の「〇〇日」が必要になりそうだと言われております。皆様いかがお過ごしでしょうか。
ツガエは相変わらず介護生活。でもだいぶ楽になりました。
倒れた直後の兄は、食べたり飲んだりが困難だったため、栄養の入ったゼリー飲料が主食でございました。でも最近は食欲が増して介護用の市販のレトルト食を買いあさるようになりました。「噛まなくてよい」「舌でつぶせる」「容易に噛める」「歯ぐきでつぶせる」などと書いてあるもので、おかゆ・おじやからおかず、スープ類までいろいろな種類があり充実しております。味もそこそこ悪くなく、適度なとろみがついているので食べやすく、食べさせ易くもあります。
先人は、おかゆから何から全部家族が作らなければならなかったのでしょうから、それを考えればわたくしは恵まれた時代に生まれてきたと痛感しております。
もちろんケアマネさまや介護ヘルパーさま、訪問看護師さまにも大変助けられております。兄はお通じが自力で出せないままなので、看護師さまには週1回摘便(肛門に指を入れて便を出す医療行為)をしていただいております。本当は週2回がベストだそうですが、要介護度の区分変更通知がまだ届かないので、介護保険点数の関係で週1のまま。幸いショートステイにも看護師さまがいらっしゃるので、ショートステイで摘便していただいてもおります。
週に1度通っていたデイケアは少し前に解約いたしました。デイケアは運動や認知機能を落とさないためのケアがメインの施設。「来ていただいても、寝たきり状態ではほとんど何もしていただけないので、ただ居るだけになってしまいます」とやんわりダメ出しされたのでございます。突然通えなくなって、結局それきりになってしまいましたが、致し方がございません。菓子折りを持ってご挨拶に伺い「大変お世話になりました」というと「ツガエさんは楽しい方だったので寂しくなります」と社交辞令でも言っていただけたのがせめてもの救いでございました。
最近のわたくしの介護は、兄の口に食事を運ぶことと薬を飲ませることと、ヘルパーさまが来られない曜日(月木金日の夕方のみ)のオムツ交換をすることぐらいでございます。
兄がまき散らす排泄物を掃除することがなくなったわたくしは精神的に幸せな日々を送っております。もちろん兄のご機嫌が悪いときもあるのですが、基本は目があえば笑顔で「ヤッホー」と言ってくれる穏やかな兄でございます。先日もわたくしが一人でオムツ交換をする際に「頑張って」と頭をポンポンしてくれました。そんな兄をみていると、施設に入れなくてもいいような気がしてまいります。でも、ここでそれをしたら後悔するときがくる。「あのとき施設に入ってもらえばよかった」と思う時が必ず来るとわかっているので心を鬼にいたします。
思えば2013年末の父親の交通事故から始まり、母親の看取りと兄の認知症発覚がほぼ同時にやってきて、介護に明け暮れた50代でございました。「もう十分頑張った」と自画自賛できるくらいはやってきたつもりでございます。そのご褒美として、せめてまだ体が動く60代は介護に縛られることなく生きてみたい。そう思えたのも読者の皆様の「ここまでよくやってこられた」等のお声があったからこそ。本当にありがとうございます。
たとえ施設入居しても介護から100%解放されるわけではございませんが、80%ぐらいの肩の荷は下りることでしょう。
その前に目下の目標は「健康診断」を受けること。家具やテレビも買わないと…などなど当面は入居準備でせわしなくなりそうでございます。
文/ツガエマナミコ
職業ライター。女性61才。両親と独身の兄妹が、8年前にそれぞれの住処を処分して再集合。再び家族でマンション生活を始めたが父が死去、母の認知症が進み、兄妹で介護をしながら暮らしていたが、母も死去。そのころ、兄の若年性認知症がわかる(当時57才、現65才)。通院しながら仕事を続けてきた兄だったが、ついに退職し隠居暮らしを開始。病院への付き添いは筆者。
イラスト/なとみみわ