兄がボケました~若年性認知症の家族との暮らし【第189回 要介護3になりました!】
若年性認知症の兄と暮らすライターのツガエマナミコさんが、2人の日常とマナミコさんの心情を綴る連載エッセイ、今回のエピソードは、兄の要介護認定の区分の見直しがあり、その結果が届いたというお話です。
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特養に入居申請できるようになったが
先日、わたくしの部屋の照明が切れてしまったので、近所の電気屋さまで新調いたしました。照明が切れたら電球や蛍光灯を替えるものと思っておりましたが、少々特殊だったようで本体ごと買い替えることになりました。突然2万6800円の大出費。しかも「この値段では蛍光灯色しかないんですけど」と言われ、ぬくもりのある暖色の電灯から真っ白な蛍光灯色になりました。部屋の壁紙が真っ白なので見た目の室温が一気に2度ぐらい下がったような寒々しさ。きっと夏には涼しく感じるはずと期待しております。
改めて思いましたのは、近所の電気屋さまのありがたさでございます。自分で脚立に乗って照明器具のカバーを外すだけでも初老のわたくしにとっては怖い作業でございました。兄は「大丈夫?」と心配だけはしてくれましたが、ひとつも役に立ちませんから。
電気屋さまに「今すぐ行きますよ」と言っていただいたときの安心感たるや。頼もしく家まで来てくださってあっという間に交換完了。お商売とはいえお見事でございました。
家電量販店やネット通販で購入すれば安いものが手に入るのかもしれませんが、こんなにすぐに対応してくださることはないでしょう。出張費や手間賃もございません。定価で買ってもちっとも高くないと思えました。そんな電気屋さまも以前は3軒ほどあったのに今や近所に1軒だけになりました。大事にしなくては…と思ったツガエでございます。
2日前、福祉保健センターから兄宛に書留が届き、「なんだろう?」と中を確かめると、「認定通知書」でございました。
そうです、先日ケアマネさまに介護認定調査をしていただいた結果でございます。どうせ要介護2のままだろうと思っておりましたのに「要介護3」の文字が見えて「へぇ~」とプチびっくりでございました。
要介護3といえば、ちょうど8年前、亡き母が最初に受けた要介護度でございます。認知症検査こそ受けずに他界しましたが、やはりお便さま問題は今の兄と似たようなものでした。その上、物盗られ妄想もあり、いつもイラついているようなところがありましたので、兄より何倍も扱いにくかったことが思い浮かびます。
思えば、そのころは兄もわたくしと一緒に母を介護する側でございました。8年後、兄がその母と同じ要介護3になるとは誰が想像できたでしょうか。今の兄はまったくでたらめでポンコツですが、温和で攻撃性がゼロなので、あの頃の母よりはずいぶんマシでございます。
が、何はともあれ要介護3になったということは公的な介護施設入居を申請できる条件が整ったことになります。人気の特養(特別養護老人ホーム)は、申請から入居まで何年もかかるといわれているので、いよいよ手に負えなくなってからの申請では遅いと聞いております。本当に一刻でも早く介護から解放されたいなら、すぐにケアマネさまにお頼みすべきでございましょう。
でも、まだまだそこまでのレベルではないので遠慮してしまいます。いや、もちろん常に兄の介護から解放されたいと願っております。願ってはおりますけれども万が一、億が一、兆が一、すぐに「どうぞどうぞ」と言われてしまうのが怖いのです。
この矛盾はなんでしょうか。世間体でしょうか。はたまた介護から解放されたらツガエマナミコの付加価値がなくなってしまうからでしょうか。介護を言い訳にお仕事をセーブしたり、気乗りのしないお誘いを断ったりできなくなるからでしょうか。自問自答していくと、全部当てはまるのですが、一番奥底にあるのは「そこまで切羽詰まっていない。もっと追い込まれてからでもいいんじゃない?」という己の希望でございます。結局、自分が後悔したくないだけ。恩着せがましいエゴでございます。
思えば、兄の介護も悪いことばかりではございません。この「兄ボケ」コラムはまさに兄がボケたからこそ預かった「恩恵」なのですから。
「兄上さま、どうもありがとう!」
今日はそう言っておきましょう。
文/ツガエマナミコ
職業ライター。女性59才。両親と独身の兄妹が、8年前にそれぞれの住処を処分して再集合。再び家族でマンション生活を始めたが父が死去、母の認知症が進み、兄妹で介護をしながら暮らしていたが、母も死去。そのころ、兄の若年性認知症がわかる(当時57才、現64才)。通院しながら仕事を続けてきた兄だったが、ついに退職し隠居暮らしを開始。病院への付き添いは筆者。
イラスト/なとみみわ