『鎌倉殿の13人』26話「鎌倉を見捨てないで。頼朝様を、頼家を」 政子(小池栄子)が義時(小栗旬)に託したバトン
NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』26話、前話で亡くなったと思われた源頼朝(大泉洋)の命はまだ尽きていなかった、だが意識不明。政子(小池栄子)の必死の看病が描かれる一方、後継者を巡ってそれぞれの思惑が絡み合っていき……。「悲しむ前に」(副題)の回を、歴史とドラマに詳しいライター、近藤正高さんが、歴史書を紐解きながら考察します。
頼朝亡きあとの利権争い
きょう(7月16日)再々放送される『鎌倉殿の13人』第26回。前回で退場かと思わせた頼朝(大泉洋)がまだ生きていた。史実ではたしかに頼朝は落馬したとはいえ即死ではなく、その後も1カ月ほど生きながらえた。けれども、前回あれだけきれいにみんなとお別れしたうえで倒れたのだから、てっきり臨終そのものはナレーションでさらりと流すと思っていたのだが……。それが今回、頼朝が意識不明の状態にあるなか、その周囲では彼亡きあとの利権をめぐり早くも争い始めたのだからやるせない。
義時(小栗旬)は頼朝が亡くなる前に新たな政治体制を整えるべく、内密に事を進める。それでも比企能員(佐藤二朗)には事実を伝えておいた。能員は頼朝の嫡男・頼家(金子大地)の乳母夫ゆえ、頼朝が死んだらすぐ頼家を後継の鎌倉殿に就け、自身はその補佐役として権力を振るおうと奮起する。
一方、比企と対立を深めていた北条時政(坂東彌十郎)は、頼家はまだ若いと、自分の娘婿である頼朝の弟・阿野全成(新納慎也)を次期鎌倉殿に推す。そこには妻のりく(宮沢りえ)の思惑も絡んでいた。全成の妻で時政の娘・実衣(宮澤エマ)も、自分が姉の政子(小池栄子)に代わって御台所になれると思うと、いままでのクールなキャラはどこへやら権力欲に駆られてしまう。
義時はそうした家族の思惑をよそに、鎌倉の安定のため頼家を何としてでも次期鎌倉殿に就けるべく準備を進める。朝廷には頼家を日本国総守護職に就けてもらうよう要請した。これは大江広元(栗原英雄)の助言によるもので、中原親能(川島潤哉)が朝廷への橋渡し役を担うことになる。朝廷のしきたりでは、喪中には昇進はできないので急がねばならなかった。
義時はまた、比企と北条の関係にくさびを打つべく、親友の三浦義村(山本耕史)にある話を持ちかける。それは、将来的に頼家と正室のつつじ(北香那)とのあいだに男子が生まれたら、乳母父を三浦氏から出してほしいという頼みだった。相談を受けて義村は、どこからも文句が出ないよう、この件は頼朝が言ったことにしてくれと条件はつけたものの、少し前から三浦の行く末を案じていた彼にとっては悪くはない話であった。
生々しいやりとりが繰り広げられる一方で、頼朝が亡くなったらすぐ葬儀を出せるよう人目を忍んで準備もしなくてはならなかった。八田知家(市原隼人)が引いた設計図をもとに火葬場の設置が、義時の息子の頼時(のちの泰時/坂口健太郎)とその幼馴染の鶴丸(きづき)、義時の弟・時連(のちの時房/瀬戸康史)に加え、ごく少数の大工たちにより夜を徹して進められた。
こうして鎌倉の人々がそれぞれ頼朝の死後を見据えて動くなか、外に出かけていた頼家がようやく鎌倉に戻って来る。頼家は父を見舞ったあと、頼朝の病状についていつまでも隠し通せるものではないと、御家人たちに伝えることを決めた。が、足立遠元(大野泰広)の説明が要領を得なかったこともあり、かえって混乱を招いてしまう。頼家の判断は間違っていなかったと思うが、指導力という点ではどうも先行きを案じさせる場面であった。
病床の頼朝と対面して死ぬものと察した頼家に対し、政子はなおも希望を捨てられず、献身的に看病を続けていた。しかし、本心ではやはり覚悟は決めていたらしい。三善康信(小林隆)の提案で、頼朝が確実に極楽往生できるよう「臨終出家」させるとなったときも、政子は義時の説得にあくまで反発したが、頼家は母の心を見抜いたように「小四郎、母上はもうわかっておられる」と告げた。
初対面と同じセリフだ!
臨終出家にあたり、頼朝のもとどり(髻=髪を頭の上に束ねたところ)を切ったところ、小さな観音様が出てきた。彼が流人時代に比企尼からもらったものだ。前々回(第24回)で頼朝は、この観音様について尼に問われ、挙兵のときに捨てたと言っていたくせに、じつはずっと髪のなかにしまっていたのだ。康信からそれを見せられ、政子は涙を流す。
それでも彼女はあきらめきれない。頼朝と初めて会ったときに出した木の実を彼の枕元に置いておけば、何かのきっかけになるのではないかと一縷の望みを託す。果たして、政子が疲れからウトウトしてハッと目を覚ますと、縁側に頼朝が座り、小皿から木の実を一つ手に取っていた。そして政子のほうに振り向くと一言、こう訊ねた。
「これは、何ですか?」
初対面のときと同じセリフだ! 政子は思わず縁側に駆け寄ると、人を呼ぶが、喜びはほんの束の間だった。一瞬目を離した隙に頼朝は倒れていた。「佐殿!」と昔の呼び名で呼んでも反応はなく、とうとう彼女は、事切れても開きっぱなしだった夫のまぶたを閉じ、その死を受け入れたのである。
このあと、粛然と葬儀が執り行われた。読経のなか棺が焼かれ、遺骨を御所の裏にある持仏堂に納めるに際しては、頼朝に流人時代以来ずっと付き従ってきた安達盛長(野添義弘)が骨壺を抱えて葬列を先導した。
歴史上の人物が火葬されるという描写は、大河ドラマでも案外珍しい気がする。ちなみに火葬の習俗は、仏教とともに日本に伝わり、平安時代には貴族から庶民にいたるまで広まっていたようだ。それでも土葬の風習も残った。平清盛は頼朝と同じく火葬されたのに対し、後白河法皇は土葬だった。歴代天皇で初めて火葬されたのは飛鳥時代の持統天皇だが、その後も長らく天皇の葬法は火葬だったり土葬だったりし、江戸時代初期の後光明天皇以降は昭和天皇にいたるまで土葬がずっと続いている(大角修『天皇家のお葬式』講談社現代新書)。江戸時代にはまた将軍や大名の多くが土葬された。これは儒教の説を踏まえたものらしい(平凡社『世界大百科事典』「火葬」の項を参照)。
自信がない頼家の裏に
さて、頼朝の死に対しては嘆き悲しむ人ばかりではなかった。畠山重忠(中川大志)が指摘したとおり、悲しんでいるのはごく身内だけで、御家人のなかには和田義盛(横田栄司)のように、頼朝は馬から振り落とされたと噂してあざ笑い、「ともかくこれで坂東は坂東武者の手に戻った」と喜ぶ者もいた。
頼朝の死にともない、頼家を推す比企と全成を推す北条と鎌倉殿の後継者をめぐる争いもいよいよ表面化する。御所での話し合いでは大江広元が、先に頼家を後継とすべく朝廷へ使者を送るよう進言したにもかかわらず、このときはどういうわけか全成擁立に回り、紛糾した。それを見かねた義時は、御台所である政子に裁きを委ねるようにと一喝する。
当の政子は政治にかかわるつもりなどさらさらなかった。だが、義時から「これからは姉上のご沙汰で事が動くことも多々ございましょう。そういうお立場になられたのです。好むと好まざるをかかわらず」「悲しむのは先に取っておきましょう」と苦悩の表情で言われては、態度を改めざるをえなかった。それから頼家を呼ぶと直接、鎌倉殿を継ぐよう切り出す。頼家は正直自信がないと打ち明けたが、政子は「鎌倉を混乱から守れるのはあなただけ。新しい鎌倉殿になるのです」と説得し、ついに承諾を得た。
じつは頼家が自信がないと言ったのは、この件について切り出されたら一旦は断るようにと梶原景時(中村獅童)から助言されていたからだった。いつの間にか彼のバックに景時がついていたことにちょっと驚かされる。と同時に、景時を恨む御家人も多いことを思えば、何やら不吉でもある。
ともあれ、頼家は2代鎌倉殿就任にあたり御家人たちを集めると、頼朝の死を乗り越え前に進むのだと力強く宣言する。これに比企能員は自分の思い通りになったとほくそ笑み、対して時政は妻のりくとともに不満を爆発させ、政子と義時を北条一門の裏切者として糾弾する。義時は「父上は『北条あっての鎌倉』とお考えですが、私は逆。『鎌倉あっての北条』。鎌倉が栄えてこそ北条も栄えるのです」と弁解するが、時政には聞き入れられない。実衣(宮澤エマ)もまた、政子を「結局姉上は、私が御台所になるのがお嫌だった(から鎌倉殿の後継者に全成ではなく頼家を選んだ)んでしょう」と責め立て、姉妹の関係も崩れる。実衣は頼朝の生前、政子から「あなたには御台所は無理」と言われたことを根に持っていたのだ。
頼朝からのバトンのような
肉親との軋轢からますます悩みを深める義時だが、このあと、私のやるべきことはすべて終わったと突如として引退を申し出た。しかし一門で孤立した政子がそれを許すわけがない。すべてを押しつけて逃げるのは卑怯だと義時を叱責するとともに、今後は頼朝にそうしたように自分を支えてほしいと懇願する。そして彼の手を握りしめると、そっと離した。義時が手を開くと、そこには頼朝の遺品であるあの小さな観音様があった。それはまるで政子と義時が頼朝から受け取ったバトンのようでもある。「鎌倉を見捨てないで。頼朝様を、頼家を」。政子にそう言われて義時は観音様を握りしめると、何かを決意したような表情を浮かべるのだった――。
今回は頼朝の死によって前半が締めくくられるとともに、残された人々のそれぞれの思惑や、あちこちで生じる軋轢が描かれたところは、今後の展開をほのめかす予告編のようでもあった。ドラマは参院選による放送休止を挟んで、いよいよ明日(7月17日)放送の第27回より新たなステージへと入る。
ところで、頼朝が亡くなったのは日付でいえば建久10年(1199)1月13日で、頼家が鎌倉殿としての政務開始の儀式である「政所吉書始」を行ったのは2月6日だった(吉書=吉事を記した儀礼的文書)。政権は約20日というきわめて短い期間で交代されたことになる。この間、頼朝の死は1月20日には京に伝えられ、朝廷はその日に頼家を右近衛権少将から左近衛権中将に昇進させると、同月26日には「前征夷大将軍である頼朝の遺跡(ゆいせき=故人の遺した財産や所領などのこと)を相続し、その家人・郎従らに命じて、従来どおり全国の守護を奉行するように」との土御門天皇の宣旨を発給した。
『吾妻鏡』の建久10年2月6日のくだりには、頼朝死去からまだ20日を経ていないが(実際には22日後)、宣旨(原文では綸旨)は厳密なものなので何度も審議したうえ、内々にまず吉書始を行ったとある。ただし、当の頼家は政所(幕府の中枢機関)での儀式には出席していない。このときの吉書始は、時政や能員ら有力御家人たちが列席するなかで三善康信が作成した吉書を、あとで大江広元が御所の寝殿まで持参して頼家が目を通すという形がとられた。それというのも、この時点での頼家の位階は正五位下で、政所を開く資格がなかったためである(細川重男『鎌倉幕府抗争史――御家人間抗争の二十七年』光文社新書)。しかし、幕府幹部はそうした異例の形をとってでも、頼家に鎌倉殿を継がせることを急いだのだ。それは権力の空白をつくらないための一種の危機管理であったともいえる。もっとも、頼家の新政権は誕生から間もなくして大きく揺らぐことになるのだが……。果たしてその過程はドラマではどのように描かれるのだろうか。
文/近藤正高 (こんどう・ まさたか)
ライター。1976年生まれ。ドラマを見ながら物語の背景などを深読みするのが大好き。著書に『タモリと戦後ニッポン』『ビートたけしと北野武』(いずれも講談社現代新書)などがある。