名作『JIN―仁―』が描いた感染症との戦い、命の選別…今に重なる医師の懊悩
10年前「日曜劇場」(TBS)で放映され、現在も根強い人気に支えられるられるドラマ『JIN—仁—』。幕末にタイムスリップした医師・仁(大沢たかお)が大火に逃げ惑う人々を救うために奔走する姿は、コロナ禍の医療に重なって心に深く突き刺さる。歴史とドラマに詳しいライター・近藤正高さんが、水曜だけど日曜劇場の名作を考察するシリーズ、今回は『JIN—仁— 完結編』。
時代劇の危機だった2011年
『JIN—仁— 完結編』が放送された2011年当時、テレビの地上波からは時代劇がほぼなくなっていた。TBSではこの年の暮れ、1969年から連年、月曜夜8時台に放送されてきた同局の看板時代劇『水戸黄門』がついに終了する。地上波最後の黄門役は、かつて助さん役も務めた里見浩太朗だった。このあと2017年には『水戸黄門』はBS-TBSに移り、武田鉄矢が黄門を演じている。
もっとも、『水戸黄門』や『鬼平犯科帳』などはその後も早朝や夕方に再放送される機会が少なくないし、大河ドラマなどで戦国や幕末が舞台となるたびにSNSは盛り上がる。いまや歴史コンテンツは、映像や小説以外にコミック、アニメ、ゲーム、舞台とあらゆるジャンルに広がり、幅広い層に受け入れられている。ちなみに歴史好きの若い女性を指す「歴女」が新語・流行語大賞に選ばれたのは、『JIN』の第1シリーズが放送された2009年である(受賞者は女優の杏だった)。
こうした状況を考えれば、やり方しだいでは大ヒットする可能性もあるのに、テレビ、とくに民放はなかなか手を出そうとしない。それは予算がかかるというのも大きいのだろう。歴史好きの視聴にも耐えうる、きちんとした考証のもとで過去をリアルに再現するにはカネも人も時間もかかる。敬遠されがちなのも無理はない。
時代劇でありながらSFでもあるから
『JIN—仁—』を企画したTBSの石丸彰彦プロデューサーは、子供のときから歴史好きで、祖父と一緒によくNHKの大河ドラマも見ていたという。入社してからもずっと時代劇をつくりたいと思っていた。ただ、民放でやるには、ストレートな時代劇の企画を通すハードルが高い。NHKの大河ドラマなら、予算も時間もしっかりかけられるし、視聴者のニーズもあるが、民放ではなかなかそうもいかないからだ。そのため、ストレートではない時代劇の企画をずっと考えていたところ、ある人が教えてくれたのが村上もとかのコミック『JIN』だった。
『JIN』を読んだ石丸は、「これなら時代劇でありながらSFでもあるから民放でも料理しやすい。逆に民放ならではの時代劇がつくれるかもしれない」と直感、思わず本に向かって手を合わせたとか。それから原作者の村上の自宅にも通いながら下準備を進め、2年後にようやく正式に企画書を提出し、さらに1年あまりを経て放送にこぎつける(TVガイド特別編集『日曜劇場 JIN—仁— 完全シナリオ&ドキュメントブック』東京ニュース通信社)。
脚気に効く「道名津(ドーナツ)」
ドラマ化された『JIN』は、大河ドラマ、また原作コミックとくらべても遜色ないほど、見事に幕末という時代を再現している。当時の人々の生活も忠実に描かれた。たとえば、第1シリーズの第1回では、現代からタイムスリップした仁が橘家で初めて迎えた朝、椀に山盛りの白飯と、おかずはたくあんだけという食事に驚くシーンもあった。さりげないシーンではあったが、続く完結編では、この白飯が何よりのごちそうという食生活が原因で、この時代の人たちは脚気に苦しんでおり、第1話の冒頭、橘家の刀自・栄(えい 麻生祐美)もこの病気で命の危機に瀕し、そこで仁が一計を案じて脚気に効く「道名津(ドーナツ)」なる菓子をつくる……というふうに物語がつながっていく。
完結編の第1話は、すでに仁が幕末にタイムスリップして、現実の時間の流れと同じく2年が経過したところ(年号でいえば1864年)から始まった。せっかく道名津をつくったのに、栄は娘の咲(綾瀬はるか)が縁談を断って以来、仁のもとに身を寄せていることが許せず、なかなか口にしようとしない。気がかりなまま、仁は坂本龍馬(内野聖陽)から特命を帯び、ほかの蘭方医とともに京都に赴いた。
特命とは、開国派で知られた学者・佐久間象山(市村正親)が瀕死の重傷なのですぐにも治療してほしいというものであった。象山は、攘夷派の武士たちに斬られて死んだはずだったが、じつはかろうじて生き延び、そのまま匿われていた。
回想シーンで幕府に開国を説く象山は少々……いや、かなりエキセントリックであった。重傷を負っても彼の目は爛々として、どんなものをも見抜くかのような迫力に満ちている。実際、仁が取りつけた点滴を見て、彼が未来から来た人間であることをすぐに悟った。さらには自分が仁とは逆に未来に行ったことがあると打ち明け、驚かせる。象山いわく、少年時代、木から落ち、目が覚めると病院にいて治療を受けていた。やがて未来に来たと気づいた象山少年は、手当たりしだい未来の知識を吸収したが、病院の階段から落ちてまた元の時代に戻ってきたという。史実でも同時代の人には理解しがたい部分があったとされる象山だが、この設定なら辻褄が合い(もちろんフィクションではあるが)、市村の演技もあいまってより説得力があった。
佐久間象山「神はそれほど甘くない」
このとき、象山はその後の仁に大きな影響をおよぼす言葉を遺した。自分の行動が歴史を変えてしまわないか思い悩む仁を見透かすと、「裏を返せば、それは自分が歴史を変えてしまえるしれないと思っているからだろう」「つべこべ言わずに(この国を)救え!」と一喝する。その直後、京の町は火の海となった。長州藩が挙兵し、薩摩藩などで組織された幕府軍と衝突して敗れた蛤御門の変で、幕府側が長州藩邸などに火をかけたためである。
象山は息も絶え絶えに仁に対し、「もし、おまえのやったことが意に沿わぬことであったら、神は容赦なくおまえのやったことを取り消す。神はそれほど甘くない」と言うと、いますぐここを出て救えと再び言い放った。象山は死んだが、その言葉は完結編のテーマが「仁と歴史の戦い」であると示唆するものであった。
このあと、大火のなか逃げ惑う人々を、仁は緊急の治療所で受け入れることになる。いまにして思えば、これが東日本大震災の発生した翌月に放送されたことに改めて驚かされる。前シリーズでの江戸の大火のときもそうであったように、仁のもとに押し寄せるけが人には、その症状の度合いに応じて治療の優先順位をつけるため、医師らが色別のひもで区分していった。トリアージと呼ばれるものだが、東日本大震災で改めて注目されただけに、視聴者にはこの行為の持つ意味がより重く感じられたのではないか。同様に第1回冒頭の仁の語りにあった、「僕たちは当たり前だと思っている」「平凡だが満ち足りた日々が続くであろうことを」「昼も夜も忘れてしまった世界を」「けれど、それはすべて与えられたものだ」とのセリフも、震災と原発事故、さらにコロナ禍を経た私たちの心に深く刺さる。
命をてんびんにかけてしまった
第1回は2時間近く枠がとられ、この回だけでも一編の映画を観たような気になるぐらい濃い内容になっていた。そこでは有名無名、さまざまな人たちの運命が交錯する。
仁は治療所に次々と担ぎ込まれる人たちを分け隔てなく診ていく。重傷を負った一人の長州藩士(佐藤隆太)には、周囲からは町民たちを戦火に巻き込んだ当事者として罵声も浴びせられたが、仁はすぐさま手術を施して一命を救う。あと、仁が気がかりだったのは、大やけどを負った幼い女の子で、感染症にならないようペニシリンを大量に投与する必要があった。
だが、直後に仁はいきなり乗り込んできた武士たちに連行されてしまう。そこで待っていたのは、床に臥せる西郷隆盛(藤本隆宏)だった。重度の虫垂炎とわかり、仁は周りを取り囲む薩摩藩士たちの反対を押し切って手術を始める。そのためにペニシリンを用いるが、じつはそれが京都に持ってきた最後の分であった……。こうして西郷は一命を取りとめたが、仁が治療所に戻ると例の少女はすでにこと切れていた。彼は期せずして命をてんびんにかけてしまったことに愕然とし、己の無力さを痛感する。
運命といえば、今回、京を仁に連れていった龍馬もまたいずれは暗殺される運命にある。果たして彼にそのことをあらかじめ伝えておくべきか……仁は悩んだ末に思い切って伝えようとするが、現代からタイムスリップするときに感じた頭痛に再び襲われる。それは何の意味を持つのか、大きな謎を示した上で完結編は第2話へと続いていく。この連載でも引き続き見ていくことにしたい。
文/近藤正高 (こんどう・ まさたか)
ライター。1976年生まれ。ドラマを見ながら物語の背景などを深読みするのが大好き。著書に『タモリと戦後ニッポン』『ビートたけしと北野武』(いずれも講談社現代新書)などがある。