シニア特急~初老の歴史家、ウェールズを征く~<23>【連載 エッセイ】
長年、イギリス史を研究してきた、歴史家でエッセイストの桜井俊彰氏は、60代半ばにして、自身にとって「行かなければいけない場所」であったウェールズへの旅に出かけます。
桜井さんのウェールズ旅の軌跡を、歴史の解説とともに綴った、新しいカタチの「歴史エッセイ」で若いときには気づかない発見や感動を…。
シニア世代だからこそ得られる喜びと教養を堪能してください。
さあ、『シニア特急』の旅をご一緒しましょう!
【前回までのあらすじ】
ウェールズの大聖堂「セント・デイヴィッズ」にゆかりの深い『ジェラルド・オブ・ウェールズ』の本を日本人向けに出版した桜井氏は、「セント・デイヴィッズ」を訪れ、その著作を寄贈することを夢見ていた。
そして、ついに念願が叶い、ウェールズへの旅へ出発する。
飛行機、列車、バスを乗り継ぎ、無事に目的地である大聖堂「セント・デイヴィッズ」のある街、セント・デイヴィッズに到着した。
宿はB&Bの「Ty Helyg(ティー・へリグ)」。早速、訪れた大聖堂は土地の谷底にそびえ建っていた。神聖なる聖堂の中へ入り、ついにジェラルド・オブ・ウェールズの石棺に出合う!また、思いがけず、テューダー朝の始祖である国王ヘンリー7世の父、エドモンド・テューダーの石棺にも巡り合う。
ジェラルドについて記した自著を大聖堂「セント・デイヴィッズ」へ献上したいという思いを果たし、翌朝、再び「セント・デイヴィッズ」を訪れた際、教会の幹部聖職者である参事司祭に出会い、前日渡した著書のお礼を言われるのだった。そして、バスを乗り継ぎ、次の目的地、ペンブロークに到着した。
予約していた宿「Old Kings Arms Hotel」は、まるで絵本に出てくるような外観。チェックインも定刻より早く、到着と同時に可能になった。
* * *
(2017/4/11)
VII これぞカッスル、ペンブローク城【6】
●ウナギの寝床
思い切り気分をよくしながら、私は女性案内係の後についていく。
フロントのすぐ脇の階段を上がり2階フロアにでる。そこにはロビーらしきスペースがあって、丸テーブルや長椅子、大型テレビが置いてある。ただし窓がないので部屋が全体的に暗い。
その部屋の横に細長い廊下が奥に続いていて、私は案内係の後を追って、ホテルの中へ中へと進む。途中、ガラス板で仕切った防火扉を開けて、さらに奥に行く。
廊下は、大人2人がかろうじてすれ違えるくらいの幅しかない。ずいぶん奥に入ったな、このホテルはウナギの寝床か、はたまた京都の町家みたいだなと思った。
確かに、「Old Kings Arms Hotel」は緑色に塗られた正面から見ると、ほんの数部屋程度のとても小さな宿にしか見えない。
でも、実際は外面からは想像もできないたくさんの部屋を持った縦に細長い構造だったのだ。
何だか隠れ家のような気がして、これは面白いなと思っていると、また階段があって、ほんの少し上にあがる。明らかにこれは上のフロアに行くための階段ではなく、建物の段差を上るためのものだ。
このホテルは増築して後から部屋を増やしたのだ、ということがわかる。その小さな階段を上って少し歩いた廊下の右側に、私の泊まる部屋があった。
「サンキュー」と、私は案内係の女性にチップを渡し、中に入る。
落ち着いたブラウンの壁、高くない天井、ゼミダブルのベッド、ドアのそばには十分なスペースのクローゼットがあり、浴室もバスタブ付きで広い。デスクもベッドわきに1つ、そして窓際の壁に付けてある大型テレビの下に小さいデスクがまた1つ。
全体的に屋根裏部屋的安息感の漂う、私好みの部屋である。
ああ、ウェールズのホテルはいいなあ。大きく伸びをしながら、私は窓のカーテンを開けた。
細長い中庭が見える。その先にはこのホテルの正面の裏側、つまり、私が向かいの道路から見た緑色のホテルの裏側が見える。その、ここから見るホテルの正面の裏側は、緑色ではなく、レンガ色である。そして中庭を間にして、ホテル正面から回廊のような細長いホテルの建物が、いま私のいる部分までつながっている。
要するに、「Old Kings Arms Hotel」は長方形を縦にして、真ん中に中庭という区間がある構造なのだ。
こういう、正面は狭いが奥が広く家の中に入って驚く、という京町家風の建物は好きである。というのも、伊賀地方にある私のカミさんの実家が、かつてこういう構造で、従ってもちろん古く、東京育ちの私は、結婚して連れ合いに故郷をもらったような気がして、嬉しくてよく行っていた。
よし、あとでメッセンジャー(Facebookのサービスツール)でこのことをカミさんに報告しよう。このホテルも、もちろんフリーWi-Fiがある。まったく、成田空港で借りてきたレンタルWi-Fiは使う機会がない。
●青りんご考
さて、部屋にも入れた。ではペンブローク城に行こう。でもその前に腹ごしらえをと、私は「ティー・ヘリグ」でエリン(「ティー・へリグ主人の奥さん)に包んでもらった青りんごと数枚のトーストを出し、昼にする。
これで昼食は、二日連続で泊まった宿の朝飯から調達していることになる。一人旅の気楽さだが、実は私は、この青りんごが大好きなのだ。
日本ではもうすっかり店頭から消え、絶滅してしまった感がある青りんごだが、イギリスにはこれがふんだんにあるから嬉しい。
小さめの食べきれる大きさといい、爽やかな酸っぱさといい、なぜこれが、今の日本では手に入らないのか。残念というよりは悔しい。
青りんごとキャベツとマヨネーズで作るりんごサラダは私の夏の大好物で、昨今は手に入る極力酸っぱめのりんごで作るしか方法がないのだが、到底青りんごを使った味には及ばない。
しかし、日本のりんごはなぜあんなに大きく、高級化してしまったのだろう。昔は青りんごだけではなく、赤いりんごも一人で食べきれる、そんなに大きくないサイズが主流だったし安かった。
こうなってしまったのは、りんご農家の高齢化とか、生産者人口の減少で、1個あたりの収益性が高いものへと栽培がシフトしてしまったこと、また海外との対抗上、付加価値のある日本だけにしか作れない高級りんごを作る必要に迫られたなど、しばしば語られている事情や戦略が背景にあるのだろう。
これはりんごだけに限らず日本の果物全般、そして農産物全体に共通する課題でもある。
そうまじめに考えると、青りんごが食べたいなどという願望は、今の日本ではノスタルジーの世界だけに止めておくことなのかもしれない。
青りんごを食べたければイギリスに来ればいいじゃないか。
毎年必死になって台風からりんごを守り、育てている日本の高級りんご中心の栽培現状を考えると、廉価で懐かしい、サラダに最高の青りんごが食べたい、食べられないのは残念だなんて、死んでも言ってはいけない。我が国が世界に誇るおいしい高級りんごを食べなさい、と。有難すぎて涙が出る。
●ササノさん
私はショルダーバッグ1つの身軽さになって、部屋を出て、再び細長い廊下を抜け、階段を下り、フロントの脇に来た。
デスクにはさっきの支配人と思しき老紳士がいた。
これから城に行ってくると伝えると、彼は表情を崩さずに軽く頷いた。物静かで、どこか好感のもてる人である。
誰かに似てるなあと思いつつ、私はまた1階レストランのテーブル席の脇を通り、隣接のパブを今度は左に見ながら、ホテルの小さなドアを開けて外に出た。
目指すペンブローク城はホテルの左側、つまり西側へ少し歩いたところにある。ホテルから城壁が見える近さである。
――そうだ、笹野高史さんに似ている――
ポンと、頭に浮かんだ。
あの老支配人が、である。私は会った人のイメージや印象を誰かに伝えるとき、よく芸能人に例える。もちろんそれがウェールズ人だろうが、エジプト人だろうが、ジャマイカ人だろうが、日本の芸能人や有名人に例える。
この場合、必ずしも外見は似ていなくても、全体としての雰囲気、印象を重視する。そうやって探すと、たいてい似ている人は見つかるのである。
このウェールズ行きをプレゼントしてくれたカミさんに、帰ったら旅の詳細を丁寧に話そうと思っている。だから、私が出会った人たちをカミさんが頭の中に描きやすいように、私はこういうやり方に努めている。
ササノさん、ササノさんとつぶやきつつ私は歩き、ホテルを出てからほんの2、3分でペンブローク城の入り口に着いた。「348のバス」の運転手が言っていた1分というわけにはいかなかったが、彼の言葉は基本的に正しい。
桜井俊彰(さくらいとしあき)
1952年生まれ。東京都出身。歴史家、エッセイスト。1975年、國學院大學文学部史学科卒業。広告会社でコピーライターとして雑誌、新聞、CM等の広告制作に長く携わり、その後フリーとして独立。不惑を間近に、英国史の勉学を深めたいという気持ちを抑えがたく、猛烈に英語の勉強を開始。家族を連れて、長州の伊藤博文や井上馨、また夏目漱石らが留学した日本の近代と所縁の深い英国ロンドン大学ユニバシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)の史学科大学院中世学専攻修士課程(M.A.in Medieval Studies)に入学。1997年、同課程を修了。新著は『物語 ウェールズ抗戦史 ケルトの民とアーサー王伝説 』(集英社新書)。他の主なる著書に『消えたイングランド王国 』『イングランド王国と闘った男―ジェラルド・オブ・ウェールズの時代 』『イングランド王国前史―アングロサクソン七王国物語 』『英語は40歳を過ぎてから―インターネット時代対応』『僕のロンドン―家族みんなで英国留学 奮闘篇』などがある。著者のプロフィール写真の撮影は、著者夫人で料理研究家の桜井昌代さん。