「母の介護かドラマの撮影か?」市毛良枝さん、俳優業と介護の両立に悩み揺れた苦悩を乗り越えるまで――
市毛良枝さんは2004年頃から母の介護を続けながら俳優として活躍してきた。100歳で旅立つまでを綴った新著『百歳の景色見たいと母は言い』には、その道のりが綴られている。母の介護はさまざまな介護サービスを活用し、周囲に助けてもらいながら、乗り越えてきたという。俳優という時間が不規則な職業だけに、さまざまな苦難があったという。【全3回の第2回】
プロフィール/市毛良枝(いちげよしえ)さん
文学座附属演劇研究所、俳優小劇場養成所を経て、1971年にドラマ『冬の華』でデビュー。以降、テレビドラマ、映画、舞台、講演と幅広く活躍。40歳から始めた趣味の登山では、キリマンジャロやヒマラヤにも挑戦。特定非営利活動法人・日本トレッキング協会の理事も務める。環境問題にも詳しく、1998年に環境庁(現・環境省)の環境カウンセラーに登録、第7回環境大臣賞受賞。最新出演作は映画『富士山と、コーヒーと、しあわせの数式』、NHKBSプレミアムドラマ『終活シェアハウス』。新刊『百歳の景色見たいと母は言い』(小学館)発売中。
「誰か手伝ってくれる人、いない?」と発信し続けた
――市毛さんは俳優業を休むことなくお母様の介護を続けられました。介護離職は社会問題にもなっていますが、仕事との両立はどのようにしていたのでしょうか。
介護はある日突然始まるのではなく、高齢の親の老いが目につき始め、自立生活が徐々に難しくなっていく、その先にあるものです。
一方で、体の機能が衰えて要介護度が進んでも、状態は回復することもありますから決めつけないことです。母は80代後半で病気や骨折を経験して、一時的に車いす生活になりましたが、リハビリを頑張って回復し90代でも再び元気に歩けるようになったんです。
介護は先が見えませんから、その時々の状態に合わせて臨機応変に対応するしかないのです。
俳優はかなり不規則な仕事であり、撮影で長期間家を空けなければならないこともあります。介護保険で使えるデイサービスやヘルパーさんは基本的に朝の9時から夕方17時まで働く人を想定したサービスなので、時間が調整できないことも多々ありました。年の離れた兄はすでに高齢でしたから、頼ることも難しく、私ひとりでなんとかするしかありません。でもひとりで抱え込んでは、私も倒れてしまう可能性があります。だから、母の衰えを感じ始めた頃から、周囲の人に「助けて!」と状況を発信していました。
親族やいとこ、友人、仕事関係者、近所の人たちに、「母がこんな感じなんだけど、こういうことを助けてくれる人はいないかしら?」と積極的に声をかけていたのです。街で出会った顔見知りに、仕事や食事会で会った人々に、とにかく困っていることを伝えていました。
母の介護かドラマの撮影か「事務所社長の言葉」で決心
――13年の介護生活の中で、「仕事をやめたい」と思ったことはありましたか?
元気だった母が80代後半から徐々に弱っていき、緩やかに介護生活が始まった頃、私は50代半ばでした。俳優としてこのままでいいのだろうかと、揺れる時期ではありました。仕事をやめるとまではいかずとも、セーブするかどうか、迷ったことはあります。
母は80代後半のときに脳梗塞が引き金となって大腿骨を骨折し、医師から「歩けなくなるかもしれない」とまで言われました。ちょうどその頃、ドラマの仕事で3か月間、地方の離島で撮影するという話をいただいたのです。
母はリハビリ病院に転院できるかのきわどい時期で、移れたら少し安心できます。でもすぐに帰ってこられない離島に長期間行くのは不安で、どうしようかと迷っていました。
そんな私に、当時所属していた事務所の社長がこう言ってくれたんです。
「市毛、親が死ぬのを待つようなことはやめろ。親が元気になる方向にものを考えろ」
その言葉を聞いて、まさにその通りだと思いました。仕事をセーブして母の側にいたとしても、状況がよくなるとは限らない。ただ死を待つようなことは母にも失礼と思いました。それなら、仕事をして、母が元気になるためにできることをすればいいんだと。
社長の言葉に背中を押され、その仕事を引き受ける決心をしました。撮影期間中には、いとこの妻に協力してもらって母のそばにいてもらいました。
撮影がお休みの日には東京に戻って、母の入院先に駆けつけました。そこで医師やスタッフのかたたちに、私たちが望む治療方針の調整をお願いしました。やはり母のことで決定権があるのは、娘の私だけなんです。
要望が確実に伝わっていなかったことなどを医療チームと共有し、リハビリの負荷を上げて身体機能を回復させるプランを再び組んでいただきました。母はまた懸命にリハビリに取り組み、歩けるまでに回復していきました。そんな母に励まされるように、私も俳優として揺れていた時期を乗り切ることができたのではないかと思います。
――介護と俳優業の両立は、想像以上に大変だったと思います。
車いす生活になった母が家に戻れなくなったので、仮住まいを探して家をどうするか悩み、その間も病院の送迎や薬の手配など、細々としたことをこなしながら、仕事に向き合う日々でした。
目の前のことにどれも120%の力で向き合っていました。気持ちが休まる暇がなかったせいなのか、その頃の記憶が曖昧なんですよ。
幸いにも母の介護を共に闘ってくださるかたが見つかったので、周囲にも頼りながら、なんとか介護を回して、仕事と両立することができました。
とにかく「誰か助けて」と早めにSOSを発信していたことで、サポートしてくださる人たちと出会い、チームで乗り切ることができたのだと思っています。
何事も真剣に取り組んでいれば、誰かが味方をしてくれる。介護も、仕事もとにかく前に進むこと。手を止めないことが大事かもしれません。撮影や舞台のスケジュールが危うい時もありましたが、その都度必死に綱渡りをして、乗り切ることができました。お世話になった人たちには今でも本当に感謝しています。
――どんなタイミングでどのような介護サービスを活用されていたのでしょうか。
私は自分の心が危うくなったのを機に「つきっきり」をやめました。介護保険制度も利用して、ショートステイやデイサービスを活用していましたし、途中1年間ほど母が介護付き有料老人ホームに入ったこともあります。
親の介護に不安を感じたら、とにかく誰かに話すことです。地域包括支援センターに行くことから始めるのもいいと思います。相談すれば、きっと誰かが助けてくれます。介護はいつか終わりますが、その時がいつかは誰にもわかりません。誰もが未経験で、先が見えないから不安になるものですよね。
母が80代後半で骨折して入院したとき、たまたま通りがかった区の福祉関連の施設に飛び込んだことがありました。そこのスタッフの女性に「何がわからないのかもわからないけれど、私は母の退院までに何をどう覚悟しておけばいいのでしょうか」と質問したのです。母は死ぬかもしれないし、生きたとしてもどうなるかわからない。
その女性は、あらゆる可能性を想定していくつかのパンフレットや資料を手渡してくれました。親身になって話を聞いていただいたことで、ふっとラクになって精神的に救われました。
実は母の介護中に、一時「介護うつ」のような状態になったこともあります。友人たちに「私、今危ないかも」と早い段階で助けを求めました。その時、話を聞いてくれた友人たちや、ソーシャルワーカーさんのおかげで、危険な状態を脱し、気持ちを立て直すことができました。
やっぱり「ひとりで抱え込まない」。これが一番大切だと思います。
撮影/フカヤマノリユキ スタイリング/金野春奈(foo) ヘア&メイク/長縄希穂(マービィ) 取材・文/前川亜紀
撮影/フカヤマノリユキ スタイリング/金野春奈(foo) ヘア&メイク/長縄希穂(マービィ) 取材・文/前川亜紀
