末期がんの母と向き合ったコラムニストが“非日常”の渦中で危うく陥りそうになった罠とは|「147日目に死んだ母――がん告知から自宅で看取るまでの幸せな日々」vol.7
衰えていく末期がんの母の体力を目の当たりにすると、頭でわかっていても、不安で気持ちが揺れる。積極的な治療をせず自宅で過ごすと決めた母の意思を尊重すると決めたコラムニストの石原壮一郎さんが、命と向き合った家族の記録を綴る。気持ちを伝えられるうちに「聞いた方がいい」と、意を決して尋ねたことに、毅然と答えた母だったが・・・。“そのとき”を意識する日々がとうとう訪れた。
執筆/石原壮一郎
1963(昭和38)年三重県生まれ。コラムニスト。1993年『大人養成講座』(扶桑社)がデビュー作にしてベストセラーに。以来、「大人」をキーワードに理想のコミュニケーションのあり方を追求し続けている。『大人力検定』(文藝春秋)、『父親力検定』(岩崎書店)、『夫婦力検定』(実業之日本社)、『失礼な一言』(新潮新書)、『昭和人間のトリセツ』(日経プレミアシリーズ)、『大人のための“名言ケア”』(創元社)など著書は100冊以上。故郷を応援する「伊勢うどん大使」「松阪市ブランド大使」も務める。
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聞くなら今しかない「残酷な質問」
その話題を切り出したのは、5月下旬、3度目の腹水穿刺(お腹に針を刺して腹水を抜く処置)をしてもらった日の午後だった。この頃、母の体力は目に見えて衰えていた。
聞いていいものだろうか。これまで貫いてきた「石原昭子の生き方」をまっとうしてもらうには、聞いておいたほうがいいだろう。聞くなら、寝たきりになる前の今しかない。いつものようにテレビで再放送の時代劇を見ながら昼食を食べたあと、こう尋ねた。
「あのさあ、まだまだやと思うから聞くけど、どんな葬式をしてほしい?」
あまりにも不躾で、残酷な質問である。母は少し驚いた様子ではあったが、いつもの穏やかな口調でしっかり答えてくれた。
「そやなあ、父ちゃんのときみたいに派手なんはいらんかな。本当に来たいって思ってくれる人だけ、来てくれたらええわ。コロナがあってから隣組の人らの香典も手伝いもなしになったけど、連絡はしてもろたほうがええかな」
15年前に亡くなった父親の葬儀は、当時としては「普通のやり方」だったが、コロナ後の今から見ると、それなりに大がかりで参列してくれる人も多かった。親戚や隣組や近所の人たちに、たくさん手伝ってもらったのも覚えている。
予想通りの答えだったが、本人の言葉で希望のイメージを聞けてよかった。母としても話しておくことができて、きっとよかったに違いない、と信じたい。どの家が「隣組」なのかも聞いておくことができた。地域の付き合いを大切にしてきた母としては、「何かあったとき」の連絡先を息子に伝えたことで、ホッとできただろうか。
重くなりかけた雰囲気を吹き飛ばそうと、明るい口調で「こういうことは、なかなか本人の希望を聞くことはないもんな」と言うと、母は「そやな。珍しいやろな」と笑った。やっぱり強い人である。ただ、そのあと少しうつむいて「ほんでもまあ、とうとう葬式の話になったか」と寂しそうに呟いた。その声の響きは、今も耳に残っている。
最後になった母の新聞投稿
母が退院してからも、寝るときは母屋とは別棟の2階に引っ込んでいた。しかし、だんだん離れて寝るのが心配な状態になってくる。介護用ベッドを使い始めた5月上旬から、ベッドが置いてある和室で隣りに布団を敷いて寝るようになった。
無意識のうちに緊張していたのだろうか。12時頃に寝ても、朝3時か4時頃には目が覚めてしまう。私が起きたときには、ベッドの上の母も目を開けていた。「おはよう」と言うと「おはよう」と返ってくる。当たり前のやり取りができることが、とても嬉しい。旅立つ日まで40~50日あったこの頃は、母の「おはよう」も力強かった。
いつの間に書いて送ったのか、5月26日付の「夕刊三重」に母の投稿が掲載された。「最後の投稿」である。タイトルは「息子夫婦が大病の私を/いたわってくれ幸せ」。そこには「嫁が一緒にお風呂に入ってくれ」たことや「夜は息子と枕を並べて」寝ていることが綴られていた。「こんな日が一日でも長く続きますように願うばかりです」とも。
新聞が配達された直後、投稿コーナーを見た私が「あれ、この『女性、80代』って?」と言ったときに、目くばせして小さく首を振っていた母の表情が忘れられない。いたずらがバレた子どものようだった。感謝を直接伝えるのはテレ臭かったのだろう。バレないわけはない“いたずら”だが、あっさり見破ってちょっと申し訳なかった。
母が起きられなくなった日
朝、起き出して台所でお茶を淹れていると、洗面所から「ピッ」と体重計の電子音が聞こえてくる。母は退院してから毎朝、体重を測ってトイレのカレンダーに書き込んでいた。お通じの回数も「正」の字で記録してある。母がいなくなってからも、そのカレンダーを片付ける気にはなれず、去年の暮れまで5月のまま壁にかけっぱなしだった。
まだ外が暗い早朝に、母とのんびりとお茶をすする。母が頼りにしていた甥っ子のカツキさんが、山あいで丹精込めて栽培したお茶だ。この年の春もたくさんの新茶を届けてくれた。母は「やっぱり、カツキのお茶がいちばんおいしいわ」と満足そうにお茶を飲みながら、昔の楽しかった思い出をポツリポツリと話す。
お正月になるとみんなですき焼きを囲んだこと、子どもや孫とあちこち旅行に行ったこと、子どもの頃に父親にくっついて山仕事に行ったこと……。時おり亡くなった夫の愚痴になることもあったが、今となってはノロケの一種に聞こえる。相づちを打ちながら、母が投稿に書いたように、私も「こんな日が一日でも長く……」と願っていた。
母がベッドから起きられなくなったのは、私が外せない用があって東京の自宅に戻っていた5月29日の夜だった。実家に残って母を看てくれていた妻から、夜中に「お義母さんが急に弱って、コップも持てなくて落としてしまった」という連絡が入る。水もほとんど飲もうとしないという。かなりあわてている様子だ。
その日の朝、私が出発する前には、台所のテーブルで自分でご飯を食べてしっかり話もしていた。いきなりの展開に驚いたが、どうしようもない。焦りは意外になかった。「石原昭子は息子がいないタイミングで旅立つような人ではない」と信じていたのかもしれない。都合がいい希望的観測だが、幸いなことに買いかぶりではなかった。
翌朝、妻から「少し落ち着いた様子で、お粥も食べてくれた。梅を漬けようという話をしたら元気になった」という連絡があった。その後、看護師さんが酸素を供給するチューブを鼻につないでくれたり、ケアマネさんがヘルパーさんのシフトを増やす調整をしてくれたりなど、ベッドの上で過ごす環境を整えてくれたようだ。
私が東京から戻って「ただいま」と声をかけると、少し起こしたベッドで首をちょっとこちらに向けて、小さな声で「おかえり」と返してくれた。昨日の朝に比べて、表情が乏しく顔色もよくない。ともあれ、また会えて何よりである。このときは調子が良くなればまた起きられるかと思っていたが、母の足の裏が畳を踏むことは二度となかった。
ひと月ほど前から、痛みを抑えるために医療用麻薬の貼り薬が処方されていた。どこまで関連があるかはわからないが、体が動かなくなってベッドから起きられなくなったのは、主治医の判断で貼り薬の容量が倍になった日の深夜だった。ガンの激しい痛みで苦しまないためには、意識を朦朧とさせる必要があるのだろう。
弱ってきた母に、強い薬が必要になっていくのは仕方がない。それは十分にわかっている。しかし、事前に「薬を変えたら起きられなくなるかもしれない」と言っておいてほしかったと、チラッと思ってしまった。とはいえ、もし聞いていたらどうしただろう。
母に「起きられるうちに、しておきたいことはある?」と尋ねるのは、かえって酷だ。増量された薬がどんな影響を及ぼすかを知った上で貼るのは、言ってみれば自分の手で母をベッドに縛り付けることになるわけで、心理的な負担が極めて大きい。そう考えると、薬で深刻な変化が起きる可能性を伝えても、本人や家族を苦しめるだけである。
主治医の先生はそういったことも考慮しつつ、具体的な見通しを伝えることのメリットとデメリットを天秤にかけて、伝えない選択肢を選んだのだろう。先生は一貫して、母はもちろん家族の気持ちにも親身に寄り添い、治療のことや家族に何ができるかなどをいつも丁寧に伝えてくれた。お世辞ではなく、母も家族も「この先生でよかった」と心から感謝している。
それでも、身内が余命わずかという「非日常」の渦中にある家族は、過剰にナーバスになって「些細なこと」に引っ掛かりを感じがちだ。引っ掛かりが心の中で大きく育ってしまうと、抱かなくていい不信感や怒りにつながる。せっかく理想的な先生やクリニックに出会えたのに、そんな気持ちを抱くのはもったいない。
訪問診療や訪問介護の現場では、家族との感情的な対立が起きがちだと聞く。要望や疑問は遠慮なく伝えたほうがいいが、不安を原動力に重箱の隅をつついて不信感や怒りを抱いたところで、全員にとって百害あって一利なしである。自分も妻も「過剰にナーバスになってしまう罠」にうっかり絡めとられなくて、本当によかった。
つづく。
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