『鎌倉殿の13人』16話 戦の天才・源義経(菅田将暉)の伝説と史実、三谷大河の醍醐味
NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』16話。上総広常(佐藤浩市)死す。いよいよ源義経(菅田将暉)が物語の中心に躍り出て来た。木曽義仲(青木崇高)を討った義経が、残酷なまでに突出した「戦の才能」を見せつけた『伝説の幕開け」(副題)の回を、歴史とドラマに詳しいライター、近藤正高さんが振り返りながら解説します。
子供をどんどん産んで北条家の力を強めるべき
『鎌倉殿の13人』第16回は、頼朝(大泉洋)が義時(小栗旬)と八重(新垣結衣)のあいだに産まれた息子を「金剛」と命名するシーンから始まった。のちの北条泰時である。前回描かれた上総広常(佐藤浩市)の殺害以来、御家人たちは次は我が身とおびえ、鎌倉の空気はすっかり変わっていた。そこに乗じて時政(坂東彌十郎)が、亀の前事件から1年ほど引っ込んでいた伊豆から鎌倉に戻って来た。
時政が、北条家が生き抜いていくには、いままで以上に源氏に取り入り付き従うしかないと決意する一方で、政子(小池栄子)は頼朝と御家人をつなぐ役割を担いたいと言い、それに対して時政の妻・りく(宮沢りえ)は、女である自分たちは子供をどんどん産んで公家などに嫁がせたりしながら北条家の力を強めるべきだと主張する。
北条の人々がさまざまな思惑をめぐらせるなか、御家人たちを掌握した頼朝は、寿永3年(1184)の年明け早々、いよいよ西へ向けて軍を出す。まず、京を占拠して後白河法皇(西田敏行)を操っていた木曽義仲(青木崇高)を討つと、ついに宿敵である平家との決戦にのぞんだ。
戦の天才、源義経(菅田将暉)
というわけで義経の出番がとうとう巡ってきた。今回、義経は数々の奇策を打ち出して、義仲を翻弄し、平家との戦いを前には味方の参謀役(軍奉行)である梶原景時(中村獅童)を感服させ、まさに戦の天才ぶりを発揮する。
まず義仲との戦いでは、鎌倉を出た総大将・源範頼(迫田孝也)率いる本軍が、尾張・美濃国境の墨俣で義経の先発隊と合流する。このあと、本軍が瀬田(琵琶湖の南端)から、義経軍は宇治からと二手に分かれて義仲軍の守備を破って、京へと入る策がとられた。
義経は範頼と合流する直前、すでに木曽の義仲方の兵と小競り合いをしていた。それでも義仲は頼朝との盟約を信じ、ともに平家を討とうと義経たちの陣に使いを出して伝える。だが、義経は、義仲の呼びかけを一蹴、使者の首を斬って送り返すことで返事とする。義仲を激怒させて冷静さを失わせようという作戦だ。それと同時に、義仲が自分たちを味方と思っている以上、こちらの軍勢は把握していないものと察して、わざと少なく偽って噂を流し、相手の油断を誘う。
義仲もまた戦略家だけに、使者を殺されて一旦は怒ったものの、敵の策とすぐに見抜いて冷静さを取り戻した。だが、軍勢の読みについてはまんまと義経の術中にはまってしまう。義仲とその家人で幼なじみの今井兼平(町田悠宇)・巴御前(秋元才加)の兄妹は、宇治川の対岸に結集した鎌倉方の大軍を見て、事前にこの目で確かめなかったことを悔やんだ。
義仲軍は敵を侵入させまいと、川に架かる橋を壊し始めたが、義経はそれも予想済みで、畠山重忠(中川大志)に先手を率いて川を渡るよう命じる。これに重忠が「敵の矢の格好の的になりますが」と懸念すると、義経は心配無用とばかり、強者を二人選んで派手な先陣争いをさせ、敵の目をそちらに引きつけているあいだに川を渡るのだと指示した。
『平家物語』で有名な梶原景季と佐々木高綱の先陣争いを、陽動作戦という形で取り込んだのがうまい。もっとも、肝心の先陣争いは描かないのがまた三谷幸喜らしい。『真田丸』(2016年)でも関ヶ原などの大きな戦いがことごとく手短に描かれていたように、派手な合戦シーンよりも策略を練る描写にこそ三谷大河の醍醐味がある。
木曽義仲(青木崇高)の死
話を戻して、あっさり鎌倉軍の入京を許した義仲は、院御所に参ずると、後白河法皇との面会はかなわないまま北陸へ向かうと告げ、自身の果たせなかった平家追討は必ずや頼朝が引き継いでくれるものと信じ、法皇の悲願成就を祈って立ち去った。その様子を法皇とともに奥でこっそり見ていた丹後局(鈴木京香)が「思えばかわいそうなお人でございましたな」と同情するのが、よけいに義仲のみじめさを引き立てる。
このあと、義仲は巴御前に鎌倉に逃げ落ちるよう言って、頼朝に人質に出した息子の義高(市川染五郎)宛ての文を託す。義仲と別れたあと、和田義盛(横田栄司)の手勢に見つかり応戦した巴だが、義盛はその女武者ぶりにすっかり魅入られてしまう。そういえば、彼はこの直前、自分の妻について「兎のようにおとなしくて物足りない」と言っていたが……巴の身が案じられる。
義仲は兼平とともに自害をするつもりでいざしゃがみ込み、「源義仲、やるだけのことはやった。一つだけ心残りがあるとすれば……」と言いかけたところで、飛んできた矢に斃れた。暗転のあと、彼の唯一の心残りだった嫡男・義高は、遠く鎌倉の地で父の死を悟る。後日、義仲の死を知った政子は、娘の大姫の許嫁でもある義高の心を気遣った。
前後して義経は、義仲を京から掃討した功を法皇直々に称賛され、「しばらくは体を休めよ」と労われるも、勢いづいた彼にそんな暇はなかった。義仲の首を取ったあとは、その足で西へ向かい平家を滅ぼすと誓うと、法皇は破顔一笑し「よう申した!」とすっかり彼のことを気に入ったご様子。
「だまし討ちの何が悪い」
西国に逃げ落ちた平家だが、このころには盛り返して、亡き清盛の築いた都・福原(現在の神戸)に軍勢を集めていた。鎌倉軍が攻めるなら、東の生田口か、西の一ノ谷口が考えられた。しかし真っ向から攻めれば自軍も大きな痛手を負う。それならばと景時は、軍勢を2つに分け、範頼が生田口から攻めて敵を引きつけているあいだに、義経が山側から敵の脇腹につくという策を立てた。
だが、これを義経は「話にならない」と一蹴する。代わって彼が出したのは、福原の北にある三草山の平家方を攻め、平家の軍勢を分散してそれぞれの兵力を弱めた上で、予想外のところから攻めるという策だった。しかし、この時点でどこから攻めるかまでは決めず、そのときその場をこの目で見て確かめるという。これには御家人たちからは反発の声が上がるが、景時は自分がなぜそれを思いつけなかったのかと、義経を「軍神・八幡大菩薩の化身のようだ」とその軍才に恐懼する。
義経はさらに平家に対しても油断を誘うべく、京の院御所に手紙を送り、法皇から平家に和議を申し入れるよう頼むという抜かりなさだった。同じ戦略家ながら義仲があくまでルールに則って戦おうとしたのに対し(少なくとも劇中では)、勝ちさえすればそれでいい義経には初めからルールなどなかった。それは義時に言い放った「だまし討ちの何が悪い」というセリフに集約されていた。
肝心の義経の三草山への出兵シーンはまたしても描かれず、そのあと再び景時や義時と合流し、改めて平家をどこから襲撃するか、地元の猟師らしき男の案内で現地に赴いて検討する。ここで義経がひらめいたのが、鉢伏山から下るという案だった。これにはさすがに景時も、従う兵のことを考えていないと叱るが、義経は「誰が馬に乗ってと言った」と返す。つまり、まず馬を崖の下へ行かせて、それに続いて人が行くというのだ。景時は、攻めかかるとき下馬するなど坂東武者にそんな無様な真似はできないとなおも反論するが、義経は「戦に見栄えなど関係ない」と押し通す。
ちなみにこのとき、義経に付き従うよう義時に頼まれた畠山重忠が「馬を背負ってでも下りてみせます。末代までの語り草になりそうです」と苦笑しながら言ったのは、『平家物語』延慶本などに出てくる、重忠が愛馬を傷つけまいと馬を背負って徒歩で坂を下りたという話を踏まえたものと思われる。
こうして決戦当日、2月7日の早朝、鉢伏山の断崖の上に立った義経は、そこに鹿の糞が落ちているのを見つけ、「鹿が下りられるということは馬も下りられるということだ」と、これまた『平家物語』が元ネタのセリフを吐く。肝心の崖から下りる場面はやっぱり出てこなかったが(いまならCGなどで再現できそうだが、動物愛護の観点からはNGかもしれない)、馬上で太刀を掲げて平家の陣に飛び込んでいく義経はひたすらに輝いていた。その姿に、景時は義時とともに思わず見入り、「八幡大菩薩の化身じゃ」と再びつぶやくのだった。
実際には急な坂でもなかった
一般的に今回描かれた平家との合戦は「一ノ谷の戦い」と呼ばれ、戦場になったのは一ノ谷だけだったかのような印象を受けるが、実際には平家軍は、ドラマでもそれとなく描かれていたとおり、福原の旧都を中心に、東は生田の森、西は一ノ谷に大規模な「城郭」(建物ではなく逆茂木や堀などをめぐらしたバリケード)を構えて鎌倉軍と応戦した。そのため、この戦いを「生田の森・一ノ谷の戦い」と呼ぶ研究者もいる。
『平家物語』や『吾妻鏡』に伝えられる一ノ谷の背後にある鵯越の崖を超えての奇襲攻撃についても、研究者のあいだでは疑問が挟まれている。そもそも現在の神戸市長田区にその名が残る鵯越は、同市須磨区の一ノ谷から北東へ6キロ以上も離れていて、背後とはとてもいいがたい。また、鵯越の地形も、劇中の義経たちのセリフでは比較的なだらかな崖として扱われていたが、実際には当時より道として整備され、さほど急な坂でもなかったらしい(菱沼一憲『源義経の合戦と戦略 その伝説と実像』KADOKAWA)。
これに対し、ドラマのなかで義経が下ると決めた鉢伏山は一ノ谷の背後に位置し、たしかに険しい。その点では正しいのだが、比較的坂道に強いとされる在来馬(サラブレッドよりはるかに小さい)でも、険しい山坂道には弱いといい、やはり崖を下りるなどありえない。《むしろ現実にはありえないことだからこそ、人々を魅了する英雄伝説として広まったと理解されよう》(川合康『源平合戦の虚像を剥ぐ 治承・寿永内乱史研究』講談社学術文庫)といった解釈が、歴史研究の見地からすれば妥当なのだろう。そもそも義経は、三草山を攻めたのち山陽道を東進して一ノ谷を攻撃しており、鵯越も一ノ谷背後の鉢伏山も通らなかったというのが史実のようだ。
ただ、三谷幸喜はそんなことは承知の上で、やはり義経には戦場で輝いてほしいと願い、あのような展開としたはずだ。そのことは「伝説の幕開け」というサブタイトル(これはスタッフがつけたものかもしれないが)にもそれとなくほのめかされている。
『真田丸』の「伝説の幕開け」と同じ意味合い
思えば、『真田丸』でも、堺雅人演じる主人公の名前は史料に残る「真田信繁」だったが、大坂の陣を前にした第40話を境に、『真田三代記』などの物語に伝えられる「真田幸村」と名前を変え、ドラマはクライマックスへと入っていった。『真田丸』における信繁の幸村改名が伝説の幕開けであり、彼の終わりの始まりだったとすれば、義経の今回の輝きもまた同じ意味合いを持つのだろう。そう考えると、やや気が早いが、せつなくもなる。
ところで、今回の『鎌倉殿』でもうひとつ筆者の胸に響いたのは、京から義仲軍への勝利を伝える御家人たちの手紙のうち、義時の手紙を「内容が細かすぎてまったく頭に入ってこない」と大江広元(栗原英雄)が一刀両断していたことである。何だかまるで自分のこのレビューのことを言われているようで、思わず反省させられた。次回こそ、景時の手紙にならって「肝要なことのみ手短に」まとめるよう心がけたい。
文/近藤正高 (こんどう・ まさたか)
ライター。1976年生まれ。ドラマを見ながら物語の背景などを深読みするのが大好き。著書に『タモリと戦後ニッポン』『ビートたけしと北野武』(いずれも講談社現代新書)などがある。