山村美智さんが続ける祈りの力「私と出会ってくれた人すべてにいいことがありますように」
女優の山村美智さんとプロデューサーの宅間秋史さんはフジテレビで出会った“社内結婚”。二人と長い歳月を共有してきた仲間は数多い。昨年12月、1年半にわたる闘病の末、宅間さんは先に逝ってしまったが、今も山村さんを見守り、公私にわたって付き合いが続いている。人と自分に誠実に生きてきた山村さんに集まる、信頼と愛情の証しだ。このたび、36年半連れ添った最愛の夫との日々を綴った初めての著書『7秒間のハグ』を上梓した。
私が女子アナを擁護できなくて誰がする
山村さんが『オレたちひょうきん族』に登場したときのことを憶えているのは50歳より上ぐらいの年代だろうか。局アナといえば品行方正な笑顔で報道ニュースを読むイメージしかなかった時代、山村さんはビートたけしさん、明石家さんまさん、島田紳助さん、片岡鶴太郎さんといった錚々たる出演者に囲まれて人気コーナー「ひょうきんベストテン」のサブ司会者を務めた。
著書では、当時の様子や思いも綴られている。
突然お笑いのなかに放り込まれた局アナが、何度いじられ、からかわれても明るくはじき返して職務を全うしようとする。その攻防がおかしくて新鮮で、山村さんが卒業したあとも寺田理恵子アナ、長野智子アナと“ひょうきんアナウンサー”は引き継がれていった。
「あれは素でした。『私はアナウンサー。社員としてこの番組を仕切らなきゃ!』と本気で思ってました(笑い)。お笑いのかたが素人さんをいじるときって、真面目な素人さんほどツッ込みやすいそうです。私もバカがつくほど真面目でふざける余裕もなかったから、それが面白かったんでしょうね。いまの私なら『もう少し楽しんでやっていいのよ』と言いたいけれど、あのころの局アナはまだそういう時代でしたから」(山村さん、以下「」同)
『ひょうきん族』がレギュラー番組になった1981年、フジテレビでは大改革が行われた。それが奏功して12年連続で視聴率三冠王達成という黄金期を迎えることになるのだが、そのときアナウンサー室が報道局から編成部へ移された。局アナが報道以外の番組にも登用される基盤が整えられたのだ。
「1981年はアナウンサーの新規採用がなかったので、いちばん下っ端で暇そうな私が『ひょうきん族』に呼ばれたんです。才能があったとか、輝いていたとかいうのじゃありません。お湯呑みを洗ったり資料をコピーしたりする局アナの仕事と、きらびやかな表舞台に出る仕事の両立はアナウンス室でもほぼ初めてでしたね。心も体もクタクタになりましたけど、上司や先輩もどう扱っていいかわからなかっただろうと思います」
山村さんは次第にフジテレビの顔となり、ゲーム番組や選挙特番、連続ドラマ、CM、局のキャンペーンガールなどさまざまな仕事に登用された。
多忙を極めていた1984年、宅間さんと結婚。翌年に退職して女優業を本格化し、その後はNHK大河ドラマ『功名が辻』やフジ『ナースのお仕事』『ひとつ屋根の下』『タブロイド』、TBS『徹底的に愛は…』『恋する母たち』、映画『バトル・ロワイヤル』などに出演。主演・脚本・演出を担当した二人芝居『私とわたしとあなたと私』は英訳され、ニューヨークのオフブロードウェイでも上演した。
山村さんが女優業に主軸をおく間に、局アナはあらゆる方面へと活躍の場を拡げた。特に女子アナはタレント化・アイドル化が進んでいるが、半面「局アナなのに自己主張が強すぎる」「普通のアイドルとどこが違うの?」と批判にもさらされやすい。
山村さんの目にこの状況はどう映っているだろうか。
「どこの局の女子アナもすべてOKです。たまに前に出すぎて『あ、ちょっとカン違いしちゃったね』とヒヤリとするときもありますけど(笑い)。みんな社員という立場を背負って頑張っている。視聴者はもちろんスポンサー、局の方針、先輩・同僚などそこかしこに気を遣わなければならないことだらけで、彼女たちは普通のタレントさんとは違うものを抱えながらバラエティに出ているんです。それがどんなに大変なことかは私もわかっているので、『私が擁護できなくて誰がする?』という気持ちです」
凛とした声で語る山村さん。時代も年齢も経験差も関係ない。同じ道を歩む女子アナたちを見守り、バックボーンとして背中を支えているのだ。
「まだ前向きになり切れないところもあります」
そんな山村さんだから人望は厚い。
宅間さんの通夜・告別式では、フジテレビの元女子アナの有志が受付を務めた。
「私はたかだか5年しかいなかったんですけど、辞めたあとに入った人を含めて、フジテレビの元女子アナはみんな仲がいいですね。再婚でメディアに追いかけられていた河野景子ちゃんも来てくれてね。「大変なときにありがとね」と言ったら『私のことなんて、どうでもいいんです』といたわってくれました」
8年前、突然夫を亡くした2代目ひょうきんアナウンサーだった寺田理恵子さんがかけた言葉が心に残っているという。
「美智さん、いつか日にち薬が効いて来ますからね」
寺田さんの言葉に出てくる「日にち薬」は、時間の経過が薬になる、月日が傷を癒やしてくれるというような意味。
――日にち薬は効きましたかと記者が聞くと、
山村さんは「うーん……」と視線を落とした。
「効果はあると思います。今年1月末ぐらいに取材を受けたときは涙を堪えるのに必死でしたけど、今は堪えてお話しできていますから。ただこうやって、前向きなふりをしてますけど、まだ前向きになり切れないところもあるんです。まだまだこれからもっと悲しくなるのかもと思っています。
でも、母とワンコたちがいますからね。私まで消え入るわけにいきません」
3歳で父親を亡くし、母ひとり子ひとりで育った。母親は頭脳明晰で気丈な人だったが、現在は、認知症を患って老人ホームにいる。
認知症の母に伝えた夫の死
著書『7秒間のハグ』では、母に夫の死を告げたあとの思いがこう綴られている。
《「秋ちゃんは?」
言葉に詰まった。この間母に伝えたことは、理解されていなかったのだ。
「秋ちゃんね……死んじゃったんだよ」
「えー! なんで?」
「食道がん」
「いつ?」
「先月」
「え? 私知らなかったわ。美智子ちゃん、ママに言えなかったのね。可哀想に、可哀想に」
母が手を合わせ、何度も擦り合わせて拝んだ。その後は、今度は秋ちゃんが可哀想にと言った。母がわかってくれたのが嬉しかった。私の苦しみを、唯一、同じ嵩で感じてくれるのは、この母しかいないのだ。
でも母が神妙な顔になって、尋ねた。
「秋ちゃんの、ご家族は?」
絶句した。秋ちゃんの家族は、私よ。ママ、聞いて。私だけが、家族なんだよ。猛烈に哀しくなった。
でもね、同時に、安心もしたんだ。私の切り裂かれるような思いを、母に共有させなくて良かった。母が、認知症で良かったと。》
「未亡人」
「今はもう『秋ちゃんは?』と聞いてくれなくなりましたね。緊急事態宣言が解除されて週1回、15分だけ会えるんですけど、あまり喋れないし、反応も少なくなりました。何か刺激になればと思って、ワンコたちを連れていくんです。母の口元をペロペロ舐めると『かわいい、かわいい』って。楽しそうな顔を見ると嬉しいし、ホッとします」
山村さんは、寝る前に夫・秋史さんに祈りを捧げ、その後、その日に出会った人たちのことを順番に思い出しながら祈ることを習慣にしているという。
「いいことがありますように」
祈りを続ける意味
「私は宗教をもたないのに、祈る習慣というか、夫の闘病中はお願いしなきゃならない相手がいっぱいいたんです、『守護霊様、指導霊様、先祖の霊様、天照大神様――』って(笑い)。
地震があったりするととても不安で『ひとりって、こういうことなんだな』と思います。でも『地震、大丈夫だった?』と連絡をくれる人がいて、仕事で私を求めてくれる人もいる。本の発売日には、200人以上の友人たちがWeb出版パーティーを開いてくれました。私だけでなく、夫が遺してくれたつながりもあります。
つながってもらっているから、今の私は生きていられる。自分なんかどうでもよくなったとき『だめだめ、あの人が悲しむ』『あの人に叱られる』って思えるのは幸せなことだから、私とつながってくれている人はすべて大切なんです」
愛情深い人には愛情が返ってくる。家族のように「一番」ではないかもしれないが、山村さんが祈りを捧げるほど山村さんの幸せを祈る人が増え、その思いは一番にも負けない総量となって、再び山村さんを自由にするに違いない。
プロフィール
山村美智(やまむら・みち)さん
1956年三重県生まれ。津田塾大学卒業後、フジテレビジョン入社。お笑いバラエティ番組『オレたちひょうきん族』の初代ひょうきんアナウンサーなどで活躍。1984年、宅間秋史さんと社内結婚。1985年に退職して女優業を本格化。最新作は2022年公開予定の映画『今はちょっと、ついてないだけ』。2021年10月、初の著書『7秒間のハグ』(幻冬舎)を出版。
取材・文/柴田敦子 撮影/横田紋子