人工肛門も人工膀胱も。直腸がんの夫を自宅で看取った妻の7年間 シリーズ「大切な家族との日々」
遠山健吾さん(享年54)は、2011年、直腸がんのために、骨盤の中の内臓を全摘出して人工肛門と人工膀胱にしなければならないという診断を受けた。それから2018年7月21日に亡くなるまで、妻の圭子さん(52)は7年間、自宅で介護を続けた。
大腸がんや直腸がんの増加に伴って、人工肛門をつける人も増え、今では20万人と言われている。しかし実際の大変さはほとんど知られていない。今、遺された二人の息子と暮らす圭子さんは、闘病や介護をしている人の役にたてればと語ってくれた。
大腸検査のカメラもなかなか入らない状態だった
「初めて会った時、主人は100キロをこえていてクマさんみたいな人だと思いました。いつもこういう水色のタオルのハンカチで汗を拭きながらニコニコしてるんです」と圭子さんはいう。契約社員として働いていた企業の親会社社員だったのが2才年上の健吾さん。しかし結婚してみると“クマさん”は弱みを見せようとしない亭主関白の九州男児だとわかった。
健吾さんが急に倒れたのは、2011年、長男が小学校4年生、次男が2年生の秋の土曜日だった。
「主人がトイレから脂汗をかいて出てきて、おしっこが出ないというんです。立ち上がれないぐらいふらふらで、タクシーで近くの救急病院に行って応急処置を受けました」
翌週に検査を受け、結果を聞きに行った健吾さんから「がんだった」と電話がかかってくる。圭子さんは頭の中が真っ白になった。
「下剤を飲んで大腸の検査をする時に、カメラをお尻から入れるのですが、癒着していてなかなか入らないぐらい、相当ひどい状態だったと病院で聞きました。痛いのに検査もせずに放っておいたので、前立腺にまで及んで、おしっこが出なかったんです。
それまでずっと下痢と便秘を繰り返していたようです。ウォシュレットの力を借りて出していたみたいです。それも、あとから私がそうしてたのと聞くのに対して、まあねと答えてわかったぐらいでほとんどしゃべらないんです。なんで早く教えてくれなかったのと言ったら『もうそのことは言わないでくれ』というのが答えでした」
国立がんセンターで診察を受けた。がんはかなり進んでいる、直腸や大腸だけでなく前立腺もやられているから、骨盤の中を全部取って人工肛門と人工膀胱にしなければだめだと宣告される。
「病院の待合室に戻って、夫も私もショックで言葉が出ませんでした。私はなんと声をかけたらいいかわからなくて30分以上たちました。主人が新聞を取って読み始めたけど、手ががたがた震えてるんです。この人、新聞なんか読んでいない、怖いんだって思いました」
がんだとわかったのが2011年の秋。2012年初めにまず人工肛門にして、そのあとに骨盤の中を全摘出する13時間の大手術をした。
小学4年生の長男の「うーっ」という泣き声がトイレから
圭子さんは、迷った末、小学4年生の長男と2年生の次男に、がんのことを伝えることにした。
「長男には、主人が入院すると決まった直後に近所のスーパーに買い物に連れ出して話しました。人に会ったりしないように、土手沿いの道を行きました」
「あのねえ、お父さん実はがんなんだ。だけど手術をして元気になるために入院するから、みんなで応援してあげようね」
という圭子さんの言葉に、長男は「うん」と小さく返事をしただけで、2人はスーパーで普通に買い物をして家に戻った。しかし、長男はすぐトイレに入って出てこなくなった。「うーっ」という泣き声が聞こえた。圭子さんは、自分がこの子たちなら乗り越えてくれると信じて話すと決めたのだからと、歯を食いしばる思いでその泣き声を聞いていた。
「13時間の手術をする時には下の子にも言いました。小さくてかわいそうだったけれど主人の入院した国立がんセンターのがんと言う字がひらがななので、小学2年生の息子にも読めてしまうからです」
入院している病院にお見舞いに行く途中で、圭子さんは次男とマクドナルドでハンバーガーを食べた。「あのね、お父さんがんなんだ。でもね、治すために今頑張って入院してるんだよ。応援してあげて」と伝えると次男は「もうわかったから言わないで、悲しくなるから」とさえぎった。それでも息子たちは2人とも、病室でなにごともなかったようにふるまってくれていた、と圭子さんは涙ぐんだ。
毎日電車の中で涙が出て止められなかった
圭子さんは、このころが一番泣いたと言う。健吾さんは歩くこともできず声も弱々しく別人のようになっていた。これからのことも不安だった。毎日、昼過ぎの病院の面会開始時間に行って夕方までいる。圭子さんの母が家に来て、学校から帰った子どもたちをみてくれている家に帰りつくのは、6時、7時だった。
病室では明るくふるまっていても、家に帰る電車に乗っている30分間、涙が出て出て止められなかった。目を閉じてずっと泣いていた。でもそのまま帰ったら子どもたちを不安にさせてしまう。だから降りる手前の駅から気持ちを切り替えるのが日課だった。
「『ただいまあっ』と言って家に入るんです。元気な声で『今日、パパはこんなに頑張ってたよ』って。でもやっぱり子どもの前で泣いちゃった時もありました。そうするとすぐティッシュを持ってきてくれるんです。だからばれていたのかもしれないですよね。あんなに小さかったのに、すごく考えてくれていたと思います」
人工肛門の大変な作業は夫婦でやらないと
骨盤から内臓を出す13時間もかかる手術で、健吾さんの100キロ以上あった体重は77キロぐらいまで落ちた。すっかり弱って自宅に戻ったが、手術あとのお腹の傷がぱっくりあいているところをシャワーで洗って消毒して、人工肛門の袋をつけなくてはならない。
「最初、大変でした。腹部の左右からピンク色の梅干しのようなものが出ているんです。そこをまずきれいに拭いて、周りにお粉をつけて、厚みのあるねばねばするテープを貼っていく。その上に袋をつけるという作業なんです。主人が自分でできるようになるまでに半年かかりました。半年間は、お風呂上りに、貼りかえる様子が見えるように主人の前に鏡をおいて私がつけました」
圭子さんは、この1時間もかかる作業が人工肛門になる大変さの大きなひとつだという。お風呂場で身体をきれいにしてから洗面所でつける。コントロールできないので、替えている最中に出てしまうこともある。
「これは夫婦協力してやらないとできない。体力が弱ってる手術後に自分だけでやれと言われたらくじけてしまう人がたくさんいると思います。
昔は人工肛門のパウチから匂いがもれてしまうことがあったようですが。主人が始めた8年ぐらい前には性能が向上して、ほぼわからなくなっていました。ごくまれに、かがんだりしたはずみでテープの脇からもれると、ちょっと匂いがするということでした。会社に行くようになってからも、念のために着替えとパウチのための、はさみ、ピンセット、綿、洗浄するもの、鏡、全部持って行っていました」
肝臓に転移したがんを切除したが、3か月で再び
がんセンターに行ってすぐ、肝臓にもがんの転移が見つかって手術したが、3か月後にはまた肝臓にがんができていた。がんセンターを受診したときがステージ3。それから1年でステージ4に進んでしまった。
「最初はがんを放射線治療で小さくしてから手術で取ったけれど、そのあとは抗がん剤でした。最初の抗がん剤がわりと長いこと3年以上も効いてくれたんです。効き目がなくなって次の抗がん剤に変えた時は、副作用で頭髪もまゆげもまつげもすね毛も全部なくなってしまいました」
休職の1年間にも夫婦でがんについて話したことはなかった
健吾さんは最初の手術を受けたあと、傷病休暇ということで1年間休職して復帰を目指した。
「仕事を続けるのは本人の希望でした。私は、本人が会社に行くことを目標にして頑張るのが闘病のためにもいいと思って協力しました。食事も最初は腸閉塞になったりしないようにほんのちょっとのおかゆからで、食べてはいけないものもたくさんありました。一緒に1時間ぐらいリハビリをかねてゆっくり歩いたりもしました。徐々に普通の生活に戻していくという休職の1年間でした。主人なりに前向きな気持ちに変えていくための時間だったんですね」
その間も健吾さんと圭子さんは、がんについて話したことはなかった。
「私より主人のほうがショックで、早いうちに病院に行かなかったのも後悔してるだろうし。だったら、もうそこを言っても仕方ないと思ったんです。主人の母とは、もっと早く病院に行っておけばこんなことにならなかったのにと話してましたが。主人の前ではそういう愚痴はいいませんでした」
皮膚がぽろぽろとむける。あおむけで寝ることができない
休職の1年が終わって会社に通い始める。遠山さんは障がい者用の赤いタグをつけていたが、見た目ががっちりしているので席をゆずってもらえることはなく、つり革につかまって通勤した。2週間に1回午後半休を取り、血液検査と抗がん剤の治療のために病院に通った。
遠山さんの闘病生活は手術のあと6年8か月だった。最初の1年は休職。あとの6年弱はそうして会社に行き続けた。
「ちょっとまずいなという状態になったのが、亡くなる1年前でした。その時の抗がん剤は副作用で皮膚がぽろぽろとむけてしまうものでした。手も足も、背中に床ずれのようなものもできて寝ても辛いんです。横になりたいのに横になっていられない、ベッドに座っていて、眠くなったらちょっと横になる。そういう生活が始まりました」
寝ている時も人工肛門と人工膀胱のパウチをつけているので、左の方向に向かって寝なくてはならない。骨も曲がって身体が左に寄ってきてしまう。傾いた身体でなんとかかばんを持ち、ゆっくりゆっくり歩いて出社する姿を圭子さんは毎日見送った。
生きがいを取り上げてしまうことになった
「亡くなる1か月前まで会社には行っていました。でも2018年のゴールデンウイーク明けのある日、だるいわ、ちょっと遅れて行くと言い始めました」
休んだり、早退することも増えてきた6月に入ったある日、圭子さんは「パパ、もうそろそろ会社、辞めたほうがいいんじゃない」と声をかける。
「そうしたら『なんで?』って言うんです。『この体で続けるの?』って言ったら、『え?続けるよ』って。はあはあいいながら一歩ずつ歩いているような状態なのにすごいなと思いました」
圭子さんが「もし会社で倒れたとかなんかあったら会社の人にも迷惑かかっちゃうんだよ、パパだって通うのはもう無理だよ」と言うと、健吾さんはしばらく黙っていたあと「わかった。そうだね」と答える。
圭子さんは生きがいを取り上げてしまうことになった、と胸がつまる思いだった。このあと、会社と相談として、健吾さんは翌日から休職と言う形になった。
抗がん剤をやめることにして新たな病院へ
「病院の先生から、『今使っている抗がん剤も効き目がなくなっています。もう1つ薬があるけれど数か月しか延命できないし、非常に副作用が強いものです。使うかどうか1週間で決めてください』と言われました。主人に聞いても『まだわからない』と答えるだけでした。そして、病院に言いに行かなくてはならないという日の朝に、『パパ決めた?』聞いたら、『やめることにした』と言われ、私も同意しました」
積極的な抗がん剤治療をやめたことで、国立がんセンターからは緩和ケアの病院を探してくださいと言われる。最期は病院に入院することになると思っていた圭子さんだが、病院を探していくうちに、自宅で看取ると決意することとなった。
※次回「7年のがん闘病を看取った妻、夫の息が止まったときに」(12月7日公開予定)に続く。
取材・文/新田由紀子