シニア特急~初老の歴史家、ウェールズへ征く~<21>【連載 エッセイ】
長年、イギリス史を研究してきた、歴史家でエッセイストの桜井俊彰氏は、60代半ばにして、自身にとって「行かなければいけない場所」であったウェールズへの旅に出かけます。
桜井さんのウェールズ旅の軌跡を、歴史の解説とともに綴った、新しいカタチの「歴史エッセイ」で若いときには気づかない発見や感動を…。
シニア世代だからこそ得られる喜びと教養を堪能してください。
さあ、『シニア特急』の旅をご一緒しましょう!
【前回までのあらすじ】
ウェールズの大聖堂「セント・デイヴィッズ」にゆかりの深い『ジェラルド・オブ・ウェールズ』の本を日本人向けに出版した桜井氏は、「セント・デイヴィッズ」に訪れ、その著作を寄贈することを夢見ていた。
そして、ついに念願が叶い、ウェールズへの旅へ出発する。
飛行機、列車、バスを乗り継ぎ、無事に目的地である大聖堂「セント・デイヴィッズ」のある街、セント・デイヴィッズに到着した。
宿はB&Bの「Ty Helyg(ティー・へリグ)」。早速、訪れた大聖堂は土地の谷底にそびえ建っていた。神聖なる聖堂の中へ入り、ついにジェラルド・オブ・ウェールズの石棺に出合う! また、思いがけず、テューダー朝の始祖である国王ヘンリー7世の父、エドモンド・テューダーの石棺にも巡り合う。
ジェラルドについて記した自著を大聖堂「セント・デイヴィッズ」へ献上したいという思いを果たし、翌朝、再び「セント・デイヴィッズ」を訪れた際、教会の幹部聖職者である参事司祭に出会い、前日渡した著書のお礼を言われるのだった。そして、次の目的地、ペンブロークを目指す。
18回、19回、20回では「ペンブローク城」の成り立ちを解説。
(2017/4/11)
VII これぞカッスル、ペンブローク城【5】
●ペンブロークというところ
ハーバーフォードウェストからセント・デイヴィッズへは、バスは西へ西へと進んでいったが、ペンブロークへはひたすら南下することになる。
景色も「411のバス」では上り下りのある変化に富んだ地形が見えたが、「348のバス」の窓からはどちらかというと平たんな風景が続いている。
ところで私はこれまでペンブロークについて、もっぱら「ペンブローク城」と、城のことばかり書いてきた。が、じつはこの町は、南西ウェールズの一大港湾都市である。
ペンブロークを含む南ウェールズ一帯は、カーディフをはじめ、スウォンジー、ニューポートなど、造船が18世紀後半から盛んであり、ドック(船の建造・修理などを行うために構築された設備)もこれらの都市には数多くある。
ペンブロークにも、もちろんドックがあり、むしろ城よりも造船の町、工業の町としてのほうが有名かもしれない。
ウェールズに限らず、ブリテン島の湾は全体の傾向として潮の干満差が大きく、従って船の建造に適しており、これがイギリスにおいて古くから船づくりが盛んだったことの大きな理由の一つになっている。
私が乗っている「348のバス」も、もちろんペンブローク・ドックのバス停に行く。そこのほうが、私が降りる一つ手前のバス停、ペンブローク・カッスルより町の中心である。
でもドックを見たい気持ちはものすごくあるが、何せ私の今度の旅は超特急スケジュールなので残念だが行くことはできない。
ついでに書くが、タイトなスケジュールゆえに行くのを諦めざるを得なかったところがもう一つある。
ジェラルド・オブ・ウェールズが生まれた「マノービア城」である。
写真で見る限り少し荒れかけた、ゆえに古城としての風情たっぷりの、閑静な場所にあるいい城だ。しかもこの「348のバス」の終点はマノービアなのである。行こうと思えば行けないことはない。
ただ、こういった城を見るのには、私の場合、優に半日はかかってしまうし、ジェラルドのことを思って、古城の中にずっと佇んでしまうかもしれない。
とにかくここに寄ると時間が読めなくなってしまう。だから諦めた。
こんなとき、車があればいいと思う。そう、ウェールズを旅した私の知り合いには、レンタカーを借りた人もいる。
結局、ウェールズも他のブリテン島の地域と同様に、基本的に車社会だ。車があれば北ウェールズも南ウェールズも回りたいところを短時間で回れるし、行けないところはない。
でも私は、車は嫌いだ。若い頃はそれでもシャコタン気味のセリカを乗り回したものだが、結局やめた。
本質的に4輪が好きではないのである。そのかわり、2輪は今でも大好きだ。カワサキのナナハン、Z750LTDのチョッパーには結婚前の若かったカミさんをタンデムに乗せて走っていたこともある。
だから、ウェールズを巡るなら4輪より2輪がいい。そう、ちょい古い型のトライアンフにサイドカーつけてカミさんを乗せて、ウェールズ中を走ってみたい。いいだろうなあ。サイドカーでのカーブは死ぬほど大変だけど。
●日常英会話の難しさ
そんな白日夢のようなものを揺られるままぼうっとみていたら、それまでずっと自動車専用道路を走っていたバスがコースを出て、営業所というか車庫のようなところに入っていき、停まった。
どうしたのかと思って窓から外を見ていると、建物の中から人が出てきて、バスのドアのすぐそばに来た。運転手は席から立ち上っている。ドライバーの交代である。
彼らは親しげに何やら話している。ま、同僚だから仲がいいのは当然だ。私は彼らの斜め後ろにいるので二人の会話が否が応でも耳に入ってくる。
でも、連中が何を話しているのか、さっぱりわからない。わからないからさらに耳をそばだてるのだが、相変わらずわからない。そうだよなと、そこで思った。日常会話ほど難しい英語はないのである。
英語を学ぶとき、日常会話くらい話せるようになりたいから、とはよく聞かれる話だ。
日常会話がどの程度のものを指すかにもよるが、「こんにちは」「いい天気ですね」くらいの英語でいいのなら、その修得は難しくとも何ともない。
ただ日常会話を文字通り、例えば昨日見たテレビドラマが面白かった、くだらなかったとかいった日々の生活上のトピック、出来事を友達や同僚と話したりするもの、と定義すると、それはとたんに難しくなる。もしかしたら、英会話で一番難しいのが日常会話なのかもしれない。
日本語でもそうだが、我々が親しい者同士で話すときは、お互いがすでに知っていることは飛ばして、さらにその先から会話が始まったりする。
わかっていることは暗号や符丁にしたり、あるいは知っていることを前提とした洒落表現などが多用される。
価値観、文化、思想信条を共有している仲間、共同体であればあるほど実際に交わされる言葉は省略され、部外者には訳がわからなくなる。これが日常会話である。
こういう仲間内、コミュニティで話される英語と比べ、たとえばテレビのBBCニュースや、アメリカの大統領の演説英語は、もちろん難しい語彙や専門用語が使われるにせよ、誤解が生じないよう言葉は省略されず、筋道がきちんとわかるように、文章語のごとく理路整然と話される。だから意外とわかりやすい。
本当の話かどうかは知らないけれど、アメリカの大学で教授として長年勤めていた日本人が、学内の会議や学会での同僚のアメリカ人教授たちの英語は完璧にわかった、しかし、昼休みに大学の食堂で同僚たちが笑いながら話す英語は、ついぞわからなかった、とよく語られるエピソードも、日常会話と「公的な」会話の本質的な違いを物語っている。
英語で日常会話ぐらい喋れるようになりたいと英会話学校に行って、実際の日常会話を喋ることができるようになったら、それはもう「ぐらい」ではなくて、とんでもないことなのである。
●見えた!ペンブローク城
運転手が交代した「348バス」はルートに戻ると相変わらず飛ばしながら、ガタガタと車内中に音を響かせながら、一路南へ突き進む。
出発点のハーバーフォードウェスト・バスステーションから走り出して40分ほど経つころ、バスは一面見渡す限りのフラットな牧草地から市街地に入り始めたようだった。
それに伴って道も町中の路地のように曲がりくねりだした。だんだんと建物や家々が連なるようになり、いよいよペンブローク城も近い気がする。
私は「ペンブローク・カッスルのバス停はもうすぐか」と、例によって斜め後ろから尋ねる。
「もう少しだ、次になったら教える」と運転手。
バスが小刻みに停留所に停まるようになり、乗り降りする乗客もさっきまでと比べずいぶん増えた。間違いなくペンブローク市街に入っているなと実感したとき、バスは坂を下り始めた。その進む右手に湖のような水面が見えた。そのとたん、城壁が目に飛び込んできた。
ペンブローク城だ。でかい! 堂々としている!
バスは城を右手に、今度は坂を上ると左折してすぐに止まった。
「ペンブローク・カッスルだよ。降りたら反対方向に歩いて1分で城のゲートだ」
右手を上げ、合図を送る運転手。サンキューとお礼を言い、運転席わきの荷物置き場からスーツケースを取り、バスを降りる。少しの間、私はそのまま立ち止まっていて顔だけを動かしあたりをぐるっと見回した。小さいがいい町だ。何か、活気がある。
よし。まずはホテルだ。スーツケースを預けないと。
桜井俊彰(さくらいとしあき)
1952年生まれ。東京都出身。歴史家、エッセイスト。1975年、國學院大學文学部史学科卒業。広告会社でコピーライターとして雑誌、新聞、CM等の広告制作に長く携わり、その後フリーとして独立。不惑を間近に、英国史の勉学を深めたいという気持ちを抑えがたく、猛烈に英語の勉強を開始。家族を連れて、長州の伊藤博文や井上馨、また夏目漱石らが留学した日本の近代と所縁の深い英国ロンドン大学ユニバシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)の史学科大学院中世学専攻修士課程(M.A.in Medieval Studies)に入学。1997年、同課程を修了。新著は『物語 ウェールズ抗戦史 ケルトの民とアーサー王伝説 』(集英社新書)。他の主なる著書に『消えたイングランド王国 』『イングランド王国と闘った男―ジェラルド・オブ・ウェールズの時代 』『イングランド王国前史―アングロサクソン七王国物語 』『英語は40歳を過ぎてから―インターネット時代対応』『僕のロンドン―家族みんなで英国留学 奮闘篇』などがある。著者のプロフィール写真の撮影は、著者夫人で料理研究家の桜井昌代さん。