おにぎりから考える、嚙みあわぬ禅問答と「悟り」の真意
東京・渋谷から電車で10分の駒澤大学では毎週日曜朝、坐禅講座が開かれている。この坐禅の後の禅についての講義がまた、面白いのだ。
禅とは問答によって修行者自身に悟らせるもの
駒澤大学の坐禅の日曜講座は、午前9時から坐禅堂での坐禅を行ったあと、10時から座学による講義が開かれる。坐禅だけ、あるいは講義だけ受けることも可能だが、両方受けても片方だけでも料金は同じ500円であるし、貴重な体験なので、ぜひ両方を受けることを強くお薦めする。
講義のテーマは担当の先生によって違い、インド仏教から日本仏教まで、禅だけでなく、仏教の教え・歴史・美術など、幅広い内容で開講されている。
坐禅を終えた記者が受講したのは、中国禅宗史研究の第一人者である小川隆教授の講座。小川先生は、「禅は問答の宗教」という。教義や聖典のようなものではなく、質問と回答によって修行者自身に悟らせるのが本質というのだ。
仏教は世間の常識に逆らって生まれた
講義は、時にはトンチンカンな、わけがわからないように見える禅問答を、わかりやすく解説するもの。
「仏教というのは元々、世間の常識に逆らって生まれてきた考え方です。ある程度自分の意識を変えて、価値観の転換をしないと理解できないこともあります。そういう高度な内容をレベルを下げることなく、お伝えしたいのです」(小川先生。以下「 」内同)
この日の授業では、禅の本質を、梅干しおにぎりと五目おにぎりのたとえを使って解説してくれた。60分の授業を聞くと、チンプンカンプンだった禅問答の意味がハッキリとしてくるのが面白い。
梅干しおにぎりから五目おにぎりに
「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)という言葉があります。これは生けるものすべてに仏としての本性がそなわっている、という意味です」
われわれ凡夫もみな「仏」になれる、つまりは悟りの道を極めることができるというのだ。
「馬祖(ばそ)という人が出てくる前の仏性の捉え方は、たとえば〈梅干しおにぎり〉のようなものでした。梅干しが仏性、周りのご飯が煩悩だと思ってください」
馬祖(709-788年)とは唐代の禅僧で、今に伝わる禅の最重要人物の一人だ。梅干しのおにぎりは、外からみると、ご飯の塊にしか見えない。でもその中には確かに梅干しがひそんでいる。修行によってまわりの煩悩(ご飯)を取り除いてゆけば、やがて悟り(梅干し)が得られる、というのはわかりやすい仕組みだ。
「それまでは、坐禅を行ない、煩悩を取り除いて内なる仏性を顕現させれば、それが悟りになるという考えでした。これを馬祖という人ががらっと変えてしまいました。仏性のイメージを〈五目おにぎり〉のようなものと考えたのです」
五目おにぎりでは具とご飯が分離できない。おにぎりの全体=ご飯の全体=具の全体だ。
「馬祖の言葉で『即心是仏(そくしんぜぶつ)』というのがあります。人はありのままで仏だということです」
頑張って煩悩を取り除くことで、選ばれた人が中にある悟りに到達する、というのではなく、誰でも丸ごと仏である、という考え。つまりは五目おにぎりの構造に近いというわけだ。
人の営みそのものが悟りという教え
小川先生は続けて「作用即性(さゆうそくしょう)」という馬祖禅の考え方を説明する。
「『作用』というのは、人間の営みのことです。人間が生きていること、そのものが仏性(ぶっしょう)だと馬祖は言うわけです。当たり前の状態でいいわけで、努力をして悟りを目指すのはダメだとも言っています」
努力して悟りを目指してはいけないと説く教え。ある意味、常識を離れたユニークな考えだが、この思想を説くやり方自体も面白い。
馬祖は余計な説明をしない。なぜなら、自分自身が仏だという活きた「事実」に、弟子が自ら気づくことが大事だと考えたからだ。 これがいわゆる「禅問答」となっていく。
「馬祖は答えを言いません。逆に質問者に向かって〈問い〉をなげかえします。質問に対して質問で返したり、一見、噛み合っていないように見える答えをあえて返すのは、質問者自身に答えを見つけさせようとしているからなのです」
「禅問答」はどうして噛み合わないのか
たとえば「仏とはなんでしょう」という質問をされたら、どんな返事をするか。
師は答えとして、相手の名前を突然呼んだ。
相手は驚きながら「ハイ!!」と答えた。
それに対して師「さらに別に求むるなかれ」といった。
一体、何なんだ、と言いたくなるような、チンプンカンプンなやりとり。
「相手の人は、とっさのことですから、余計なことを考えずに、名前を呼ばれて、自然に生き生きと返事をしました。『仏とはそのことです。今とっさに返事をしたアナタの反応そのものが仏です』と、師は質問者にそう言いたいのです」
しかし、それを説明してしまっては、弟子が自ら気づくことにならない。
「なので『あなたのその反応こそが、仏性ですから、それに気づいて』を省略して『他に求めるな』とだけいったわけです」
ありのままの自分が仏だという「事実」に、問答を通して自ら気づかせる。このようなスタイルで、馬祖の禅はまたたく間に唐代の禅門を席巻し、中国禅の基調を形成した。しかし、ありのままでいいという考えには、早くも、馬祖の弟子たちの間から懐疑や批判が提起されるようになったという。
「中国の禅は、その後、ありのままの自己をありのままに認めるという考え方と、ありのままの自己を超えたところに本来の自己を見出そうとする考え方、その両者の間の往復運動として展開されてゆくことになるのです」
「悟り」は固定された正解ではなく、永遠に続く運動のようなものであったらしい。
◆取材講座:駒澤大学日曜講座「『禅の語録』を読む──作用即性(馬祖第2回)」(駒澤大学駒沢キャンパス)
文・写真/奈良 巧
初出:まなナビ