《夫の事故から介護20年》「治りません」と言われた日と顔面神経麻痺 森公美子が語る壮絶な現実と「助けて」と言える勇気
歌手、女優として数多くのミュージカルやテレビ番組に出演し、パワフルで明るい笑顔を絶やさない森公美子さん(67歳)。2006年に夫が交通事故に遭い、脳に重篤なダメージを負うという壮絶な経験をしている。びまん性軸索損傷による高次脳機能障害や身体の麻痺が残る夫を支えて介護を続けてきた。突然の絶望から、いかにして現実を受け入れ、自身の仕事と介護を両立させてきたのか。これまでの紆余曲折の道のりを語ってもらった。【全3回の第1回】
「仕事を辞める必要はない」。舞台に立つ私を誰よりも応援してくれた夫
――ご主人との出会いから、ご結婚に至るまでのエピソードをお聞かせください。
森さん:彼との出会いは、1989年ごろだったと思います。当時、彼は役者をしていましたが、大道具などの裏方としても働いていたんです。私が大好きだった世良公則さんにそっくりで、すごく格好よく見えたんですよ。私が自転車界のロールスロイスと呼ばれる立派な自転車に乗っていて、彼はママチャリで一緒に帰ったのを覚えています。
そこから結婚するまでに、彼とは別れて2~3年会わなかったときもありました。その間にお付き合いをした他の方との結婚の話し合いの席で、その彼のお母様から「結婚したら舞台のお仕事は辞めていただけるのよね?」と言われ、私の母が「この子の天職ですから、辞めることはないと思います」と答えたところ、「じゃあ、このお話はなしですね」と…。結果、白紙になって良かったのかもしれません。
――それで、最終的に現在のご主人とご結婚されたのですね。
森さん:私がこの仕事を続けることを、彼が応援してくれたことが一番の決め手でした。当時、私はミュージカルのアンサンブルから少し役をもらえるようになったくらいの立場で、まだ収入も安定していませんでした。友人の山田邦子ちゃんが「私の番組に出なよ」と声をかけてくれて、そこからテレビのお仕事をいただけるようになったのですが、彼は私が忙しくなっても見守ってくれました。
一番心に残っているのは、ドラマ『貯まる女』(テレビ東京系)に主演したときのことです。共演は山﨑努さんなどそうそうたる大物俳優ばかりで、プレッシャーに押しつぶされそうになっていました。そのとき彼が「大丈夫だよ。これだけ周りをしっかり固めてくれているんだから、お前の芝居がどうであれ、絶対にポシャるわけがない」と言ってくれたんです。一見すると失礼な言葉に聞こえるかもしれませんが、私にとってはものすごく安心できる、的を射た言葉でした。こうして私を支え、糧になってくれる言葉をくれる人と一生一緒にいたいなと思いました。
突然の交通事故。「治りません」と告げた医師に怒り、ナースセンターで泣き崩れた
――結婚から5年後の2006年、ご主人が交通事故に遭われます。当時の心境をお聞かせください。
森さん:最初は、脳に傷がついたらどうなるかという知識がまったくなくて、「いつか戻るだろう」と本気で思っていました。ところがある日、転院先のリハビリ専門病院で、主治医に「ぼくは、いつ治りますか?」と聞いたとき、本人が目の前にいるにもかかわらず「治りませんよ」と冷たく言い放たれたんです。
私はカチンときて、「そんなことを言うなんて許せない!」と、泣きながら猛抗議しました。そのままナースセンターに駆け込んで号泣していたら、看護師さんたちが慰めてくれました。そのときの看護師さんたちとは、今でも交流があるんです。彼は喋ることは難しくなってしまいましたが、手先は少し動かせたので、当時は携帯電話のメールなどで意思疎通をしていました。
――以前の彼とは違う状況を受け入れるまでには、葛藤もあったのではないでしょうか。
森さん:以前の元気な彼にはもう戻れないんだと、本当に理解して受け入れるまでには5年ほどかかりました。「こんなはずじゃない」と何度も葛藤しましたし、夫婦喧嘩をして私が家を飛び出したこともあります。でも、「この人を支えることが、私に課せられた使命なんだろうな」と思うようになったんです。
彼の事故をきっかけに、同じような障害を持つ方や、施設で暮らす方々の存在を知りました。それなら、私の歌で少しでもそういう人たちが楽しくなれればいいなと思って、ボランティアで施設に歌いに行くようにもなりました。
――退院後、ご自宅での介護が始まりました。仕事と介護の両立はどのようにしたのでしょうか。
森さん:最初はもう、何から手をつけていいか分かりませんでした。「刻み食」「とろみ食」と言われても、片栗粉を入れればいいの? というレベルです。片栗粉だと時間が経つとサラサラに戻ってしまうんですよね。そこで特殊なとろみ剤を使ってゼリー状に固めたり、顆粒の薬が苦くならないように、ゼリーの間に挟んでツルンと飲み込めるように工夫したりと、手探りの連続でした。命の危機を感じた時期もありました。自分の仕事も続けなければならず、精神的にも肉体的にも限界でした。
最初は介護士の存在すら知らず、障害者手帳の取り方も分かりませんでした。周囲の方に教えられて、ようやく手帳を取得し、介護士さんに来ていただけるようになりました。そのとき、ある介護士さんが私に「奥様はなさっているお仕事を続けてください。介護はプロの私たちに任せてください」と言ってくださったんです。その言葉に、どれほど救われたか分かりません。
さらに、その方はずっととろみ食だった彼を見て「大丈夫ですよ、普通に食べられます」と言って、少しずつ練習をしてくれたんです。そのおかげで、介護士さんが来て一年後に彼は普通の食事ができるようになりました。それから彼は元気になってアクティブになり、車いすで地下鉄に乗ってあちこち外出できるようになりました。プロの知識と技術のすごさを思い知らされました。
自身の顔面神経麻痺と、街角で「助けてください!」と叫んだ日
――森さんご自身も、心労から体調を崩されたことがあったそうですね。
森さん:事故から3か月ほど経ったころ、顔面神経麻痺になってしまったんです。顔の左半分が垂れ下がってしまって、うまく笑えなくなりました。すぐに入院してステロイドの点滴と鍼治療を並行して行いました。当時、海外の仕事があったのですが、顔の左側の皮膚を、グッと引っ張り上げて髪の毛を結び、無理やり笑顔を作って乗り切りました。この麻痺は時間との勝負で、対応が遅れると一生元の顔に戻らなくなり、悲観して命を絶ってしまう人もいるほど怖い病気なんです。幸い、いい先生に巡り会えたおかげで完治することができました。
――ご主人と車いすでの外出中に、ヒヤリとしたご経験もされたとか。
森さん:ある日、彼と六本木のミッドタウンへ出かけたときのことです。歩道の1センチくらいの段差につまずいて、車椅子から彼を落としてしまったんです。私はパニックになりながらも、大きな声で「助けてください!!」と叫びました。そうしたら、周囲にいた方々が駆け寄ってきてくれて、彼を抱き上げて車いすに乗せてくれたんです。私がお礼を言おうとしたときには、もう皆さんは立ち去っていました。
介護をしていると、どうしても周りに迷惑をかけてはいけないと遠慮して、一人で抱え込んでしまう方が多いですよね。私は、この「助けてください」「手を貸してください」と周囲に言えることこそが、介護者にとっての最大の武器だと思っています。新幹線に乗るときも、「車いすを乗せるのを手伝ってもらえませんか?」と声をかけます。日本には優しい方が本当にたくさんいるんですよ。
たくさんのプロの力と街の皆さんの優しさに助けられて、私たちの今の生活があります。介護は絶対にひとりではできません。だからこそ、自分のためにも家族のためにも、あきらめずに「助けて」と声を上げ続けることが、私が介護生活で学んだ、何より大切な教訓です。
◆歌手・森公美子
もり・くみこ/1959年7月22日、宮城県生まれ。昭和音楽短期大学卒業後、イタリアへオペラ留学。帰国後、圧倒的な歌唱力と明るいキャラクターで、ミュージカル『レ・ミゼラブル』『天使にラブ・ソングを~シスター・アクト~』など数多くの舞台に出演。テレビのバラエティ番組や音楽番組でも広く活躍している。2006年に交通事故で重度障害を負った夫の介護を現在も続けており、自身の経験をもとにした講演活動なども行っている。2026年12月9日~29日に東京・日生劇場で上演のミュージカル『ラ・カージュ・オ・フォール』に出演予定(全国ツアーは2027年1月より 愛知、大阪ほか順次上演)。
撮影/TOYO 取材・文/小山内麗香
