77歳で初めての引越し。マンション暮らしを始めた理由と最愛の亡き母に、今いちばん伝えたい言葉は?|松島トモ子さんインタビューvol.3
最愛の母・志奈枝さんが100歳で亡くなってから3年半。母親がいない広い家に住む寂しさに耐えられず、少し前にマンションに引越した。母親が旅立ってから、あらためてその存在の大きさを感じているという。もう一度会って話すことができたら、どんな言葉を伝えたいか。何度も命の危機があった波瀾万丈の人生だが、もし生まれ変わるなら、どんな人生を送りたいか。じっくり聞いてみた。(取材・文/石原壮一郎)
母の思い出が詰まった家には住み続けられなかった
――お母様と長く暮らした大きな家から、一年半ほど前にマンションにお引越しなさいました。思い出がたくさん詰まった家を離れるのは、さぞ寂しかったのでは?
いえいえ、逆です。母の匂いがたくさん染み付いた家に住み続けたら、私の精神が持たないと思ったんです。母とふたりで中国東北部から引き揚げてきたときから、途中で建物は何度か建て替えましたけど、同じ敷地にずっと住んでいました。どの部屋にもどの調度品にも母の思い出がたくさん詰まっていて、いちいち顔が浮かぶんです。
「もうこれ以上は無理」と思って、引越しを決意しました。77歳にして初めての経験です。マンションに住んでみて思いました。私はなんでこれまで、ヤドカリみたいに大きな荷物をしょって生きてきたんだろうって。長く住んだ家って、目に見えない「荷物」もたくさん詰まってますよね。
一気に身軽になったし、何よりマンション暮らしは便利で楽ちんです。ただ、お稽古場がなくなったのは困りました。前の家には一階に広くて天井が高いスタジオがあったんです。リハーサルはもちろん、お芝居もやれるくらいの。物心ついてからそれが当たり前の環境だったから、なくなることについて深く考えてなかったんですよね。
今も5月23日のコンサートに向けて準備の真っ最中なんですけど、お稽古できるスタジオがなかなかなくて。スタッフの方に苦労をおかけしてます。でも、引っ越しを決意したときは、そんなことを考えられるような精神状態ではありませんでした。
私は芸能界に向いていない人間。母がいたからやってこられた
――松島さんは4歳でデビューしてからずっと、お母様と二人三脚で芸能界を走り続けてきました。お亡くなりになって、あらためてどういう存在だったと感じましたか。
ちょっと言い過ぎかもしれませんが、母は私のすべてでした。父はシベリアに出征して生死もわからなかったし、きょうだいもいない。何もかも母が担ってくれていました。私、本当に人づきあいが苦手で、仕事関係の方たちとのコミュニケーションというか、そういうことを全部母がやってくれていたんです。おかげで私は、演じることや歌うことに専念できました。今さらですけど、自分は芸能界に向いてない人間なんです。
母が元気なころから、母の役割の大きさは十分にわかってました。自分ひとりじゃ何もできないってことも。でも、想像以上でしたね。とくに気持ちの面でのダメージが大きかったです。のちにシベリアで戦死していたことがわかった父とは会ったことがないし、私は結婚もしなかったので、身内を亡くす経験がほぼ初めてだったこともあるのかもしれません。
“娘バカ”ですけど、母が本気になったら歌もお芝居もダンスも、私より上手にできたと思います。そういうことに限らず、きっと何かやりたいこともあったでしょう。だけど母は、ずっと「松島トモ子の母」でいてくれました。
――お母様との会話で、どんなやり取りが思い出に残っていますか。
そう聞かれると、なんてことないつまらないやり取りが、意外と浮かんでくるものですね。いつだったかしら、ふたりで家にいたときに、母が「寒いわね」と言ったんです。私が「はい、暖房つけます」と暖房をつけたら、母は「トモ子ちゃんは風情がないわねえ。そういうときは『そうね、寒いわね』って会話がほしいだけなのよ」って呟いてました。まったく申し訳ない。
そうそう、けっこうユーモアもある人でした。私は41歳のときにアフリカでライオンに襲われて、その10日後にはヒョウに首を噛まれて、もう少しで命を落としそうになりました。10年後ぐらいだったでしょうか、とあるきっかけでダイビングを始めたんです。そしたら、母が「今度はサメですか」ですって。失礼しちゃうわ。
もう一度母に会えたら、元気なときに言えなかったあの言葉を伝えたい
――もう一度、お母様に会えるとしたら、どんな言葉を伝えたいですか。
子どもの頃から母と一緒に歩んできました。今になって思うのは、もっと「ありがとう」と言えばよかったなということです。親子だと、心の中では感謝していても、テレ臭くてなかなか「ありがとう」って口にできないですよね。
認知症になる前の母に、きちんと目を見て「どうもありがとうございました」と言っておきたかったという後悔はあります。時々、母のお仏壇に「ありがとう」と書かれた小さなロウソクを灯しているんですけど、届いているといいな。
読んでくださっているみなさんは、どうか私と同じ後悔をなさらないでください。親御さんに伝えたいことがあったら、テレ臭いとは思いますけど、ご存命のうちにちゃんと言葉にして話しておくことをお勧めいたします。
命の危機を乗り越えて思う生きている意味
――松島さんはかつてアフリカで九死に一生を得ました。さかのぼれば、幼い頃に中国東北部から無事に引き揚げてこられたのも奇跡的だったと伺っています。「ご自分が生かされていることの意味」を考えることはありますか。
そうですよね、人の運命って不思議なものですね。母娘で「徹子の部屋」に出たときに、エンディングの「ルールル♪」が流れ始めたタイミングで、母がポツリと言ったんです。「トモ子には重い荷物を背負わせてしまって申し訳なかった」って。
もちろん、自分では重い荷物を背負ってきた自覚なんてありません。みなさんが私の演技や歌で喜んでくださって、それが嬉しくてやっていただけです。ただ、戦争がなかったら、私は芸能人になっていなかったでしょうね。戦後の世の中で、たまたま役割を与えられた。母がどういう意味で「重い荷物」と言ったかはわかりませんが、重さを感じないまま今までやってこられたのはありがたいことだと思っています。答えになってないかもしれませんけど。
――もし、まったく別の人生を歩むとしたら、どんな人生がいいですか。
普通の人生がいいですね。私、普通のことって何もしていないんです。結婚も子育ても。普通って、たいへんなことだと思うんです。よく「波乱万丈の人生ですね」とおっしゃっていただくんですけど、そんな人生ぜんぜん嬉しくありません。違う人生を生きて、普通の喜びや幸せを感じてみたいですね。手の届かない夢ですけど。
――3回にわたって介護経験やお母様のこと、ご自身のことを詳しく語っていただいて、ありがとうございました。最後の5年半を松島さんに介護してもらって、最後は松島さんと同じベッドに寝ながら旅立ったお母様は、とてもお幸せだっただろうなと感じました。
――そうだといいんですけど。今ごろ、空の上で父と一緒に「あら、トモ子ったら、あんなこと言ってるわ」なんて笑ってるんじゃないかしら。
松島トモ子(まつしま・ともこ)
1945年7月、旧満州(中国東北部)奉天に生まれる。父はシベリアに抑留されたまま死亡。1950年、映画『獅子の罠』でデビュー。以後、名子役として高い評価と絶大な人気を獲得。『鞍馬天狗』『丹下左膳』など約80本の映画で主演を務める。少女雑誌の表紙モデルや歌手としても活躍。その後、ニューヨークに2年間留学し卒業。50代から取り組んだ車椅子ダンスでは、1998年に世界選手権で優勝した。テレビの取材でライオンとヒョウに襲われ、奇跡的に助かった経験を持つ。現在は歌手活動や講演会など、多方面で活躍を続けている。おもな著書に『母と娘の旅路』(文藝春秋)、『車椅子でシャル・ウイ・ダンス』(海竜社)、『ホームレスさんこんにちは』(めるくまーる)、『老老介護の幸せ 母と娘の最後の旅路』(飛鳥新社)など。
5月23日(金)には、東京・世田谷の成城ホールで恒例の「おしゃべりと歌で綴るコンサート vol.21」を開催。
松島トモ子オフィシャルブログ「ライオンの餌」https://ameblo.jp/matsushima-tomoko
コンサートチケット問い合わせ:K・企画
詳細&フォーム予約 https://www.k-kikaku1996.com/work/matsushima/index.html
石原壮一郎(いしはら・そういちろう)
1963年三重県生まれ。コラムニスト。「大人養成講座」「大人力検定」「失礼な一言」など著書多数。新著『昭和人間のトリセツ』(日経プレミアシリーズ)と『大人のための“名言ケア”』(創元社)が好評発売中。