介護を始めて2年半後に「徹子の部屋」で母親の認知症を公表。そして、いよいよ訪れた別れのとき|松島トモ子さんインタビューvol.2
認知症の母親を5年半にわたって自宅で介護した松島トモ子さん。日常生活でも仕事の場でもいつも一緒だった松島さん親子は、周囲から「一卵性親子」と言われていた。テレビ番組で母親の変化や介護生活のことを公表したことで、何が変わったか。そして、いよいよ訪れた別れのとき。長い旅路をともに歩んできた二人は、最後にどんな「言葉」を交わしたのか。介護の経験は何をもたらしてくれたのか。(取材・文/石原壮一郎)
長い間、母の病気・介護を公表できなかった
――介護が始まって2年半後に、それまでも親子で何度も出演なさっていた「徹子の部屋」で、お母様と松島さんの今の状況を公表しました。
番組で私の担当だった方に「松島さん、そろそろ公表してもいいんじゃないですか」と勧められたんです。私の芸能界の師である永六輔さんも、晩年はパーキンソン病を患ってらっしゃいましたが、ご自分で「僕はパーキンソンのキーパーソンだ」とおっしゃってました。自ら笑いにすることで、病気のことを広く知ってもらおうとなさったんですね。
ただ、ずいぶん悩みました。永さんはご自分の病気だけど、母は自分で判断できないわけですから。母を診ていただいていた「ふくろうクリニック等々力」の橋本昌也先生にご相談したら「それはいいことです」とおっしゃいました。「介護で苦労している人はたくさんいます。お母さんご自身がご出演なさるというなら反対しますけど、松島さんがお話なさることで、困っている方々の助けになりますから」って。
それまで私は、テレビで公表するどころか、母を介護していることを仕事関係の知り合いにもなるべく隠していました。私よりも母を慕ってくださっている方もたくさんいましたから、ガッカリさせちゃいけないと思ったんです。実際は、私の見栄だったかもしれません。
悩んだ末に出演したんですが、反響は大きかったですね。「介護は誰にとっても無関係じゃない」と思ってもらえたようです。レビー小体型認知症についても、母の場合は凶暴になったり幻視が見えたりするけど症状は人それぞれということや、アルツハイマー型と重なるケースもあるなど、詳しくお話しできました。
自分の心の内を何かに書くと気が楽になる
――公表したことによって、どういう変化がありましたか。
介護はずっと続いていくものなので、日々のたいへんさは何も変わりません。でも、それまでは仕事先とかで「今日はお母様は?」と聞かれると、「ちょっと病院に行ってます」とか嘘をついてばかりいました。それはしなくて済むようになりましたね。
私の場合は公表してよかったですけど、今、介護をなさっている方が周りの人に言ったほうがいいのかどうかは、ケースバイケースだと思います。もちろん医療機関や公的な機関には、きちんと状況を伝えて助けを求めていただきたいですけど。
お勧めなのは、自分の心の内を書くことですね。介護をしていると、とても口には出せないような感情が沸き起こってくることだってあります。口に出せば、相手も自分も深く傷つく。ノートなり何なりに書くことで、少しは気が楽になります。
私も介護が始まった頃に、お母様の介護を経験した友達から「何でもいいから書くといいわよ」と勧められて、ずいぶん救われました。最初の頃のメモなんて、自分の字がひどすぎてまったく読めない。気持ちがぐちゃぐちゃだったんでしょうね。もちろん本にするつもりなんてまったくなかったけど、結果的にはそのなぐり書きがあとで役に立ちました。
「最後の夜」に母親に語りかけたこと、母親が返してくれたこと
――ともに壮絶な時間を過ごしたお母様とも、別れのときがきました。最後にどんな言葉を交わされたのか、よかったら教えてください。
母がなくなったのは100歳8か月でした。100歳を超えると静かに命の火が小さくなっていくようなイメージを勝手に抱いていたんですけど、ぜんぜんそんなことはなかったですね。最後にマグマが爆発するみたいに、帯状疱疹やら誤嚥性肺炎やら次々にいろんなことが起きるんです。よく母にあれだけの力が残ってたなと思いました。
高熱などが収まって、いよいよ今日明日じゃないかという日があったんです。夜中に母の部屋に行くと、目をパッチリ開けて、お人形のガラス玉みたいな目をして、じっと私を見ている。「ママ、どっか痛いの?」と聞くと、首を横に振るんです。「怖いの?」って聞いたら、小さくうなづきました。もう言葉を話す力は残っていませんでした。
そうか、死ぬのが怖いんだなと思って、母が寝ている介護用ベッドにもぐりこんだんです。もともと細かった母はさらに細くなっていたし、私も細いから寝られちゃうんですね。それまでにも、時々そういう日がありました。
枕を並べて寝て、母をそっと抱きしめたんです。「ママ、大丈夫よ。もう怖くないから、どこにも行かなくていいわよ」って言って。そしたら、母が私に抱きついてきたんです。そんなことは初めてでした。弱い力でしたけど、何かを伝えてくれたのかもしれません。
私はその日は一睡もしないつもりでした。でも、疲れているもんだからいつの間にか寝ちゃって、冷たい感触で目が覚めたんです。それで飛び起きて「ママ、ママ!」と母を揺すりましたが、もう返事はありませんでした。
そのときにどう思ったかは、正直なところ覚えてないですね。ビックリしたのと、早くお医者さんに連絡しなきゃってあわててて、感傷的になっている余裕がなかったのかもしれません。
もし介護をしないままお別れしていたら、私は一生立ち直れなかった
――今振り返って「母親の介護」を経験したことは、松島さんにとってどういう意味があったと感じますか。
母を介護できたことはとてもよかったと思っています。「徹子の部屋」でもお話したんですけど、もし母が95歳でシャンとしたまま亡くなっていたら、私は一生立ち直れなかった。認知症になってくれたおかげで、少しは親孝行できた、たった半年の結婚生活のあと、私のために自分の人生を捧げてくれた母に少しは罪滅ぼしできたと思わせてもらいました。
苦労は必ずプラスになるとかって言いますけど、介護を経験して自分が成長した実感はないし、いい人間になったとも思えません。でも、絶対にできないってことは世の中にはないとわかりました。こんな私が曲がりなりにも母を介護できたんですから。
もうひとつわかったのが、人生、逃げられないときは逃げられないんだってこと。介護に限りませんけど、たいへんなことが起きても、精いっぱい自分の人生を受け止めるしかない。そういう人生だと思って、立ち向かうしかありません。
「親を介護しているんです」「じつは連れ合いを介護していました」という方に会うと、「まあ、お友達ね」と思います。いっしょに戦ってきた同志って感じかしら。経験者にしかわかり合えないことってありますから。
よく「やまない雨はない」とか「明けない夜はない」とかって言うけど、介護中はぜんぜんそう思えないんですよね。雨や暗闇がいつまでも続く気がしてしまう。今、介護している人もそういう気持ちだと思います。だけど、雨はやんだし夜も明けました。そして、苦しいことは覚えていません。これは、私が楽しいことだけ覚えていたい性格なだけかもしれませんね。
松島トモ子(まつしま・ともこ)
※松島トモ子さんが勇敢にサメと戦う映画「松島トモ子 サメ遊戯」(監督・河崎実)が4月4日、ヒュー1945年7月、旧満州(中国東北部)奉天に生まれる。父はシベリアに抑留されたまま死亡。1950年、映画『獅子の罠』でデビュー。以後、名子役として高い評価と絶大な人気を獲得。『鞍馬天狗』『丹下左膳』など約80本の映画で主演を務める。少女雑誌の表紙モデルや歌手としても活躍。その後、ニューヨークに2年間留学し卒業。50代から取り組んだ車椅子ダンスでは、1998年に世界選手権で優勝した。テレビの取材でライオンとヒョウに襲われ、奇跡的に助かった経験を持つ。現在は歌手活動や講演会など、多方面で活躍を続けている。おもな著書に『母と娘の旅路』(文藝春秋)、『車椅子でシャル・ウイ・ダンス』(海竜社)、『ホームレスさんこんにちは』(めるくまーる)、『老老介護の幸せ 母と娘の最後の旅路』(飛鳥新社)など。
5月23日(金)には、東京・世田谷の成城ホールで恒例の「おしゃべりと歌で綴るコンサート vol.21」を開催。
松島トモ子オフィシャルブログ「ライオンの餌」https://ameblo.jp/matsushima-tomoko
コンサートチケット問い合わせ:K・企画
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石原壮一郎(いしはら・そういちろう)
1963年三重県生まれ。コラムニスト。「大人養成講座」「大人力検定」「失礼な一言」など著書多数。新著『昭和人間のトリセツ』(日経プレミアシリーズ)と『大人のための“名言ケア”』(創元社)が好評発売中。