国枝慎吾さん祝・国民栄誉賞決定!車いすテニス界のレジェンドが明かす「俺は最強だ」誕生秘話と勝負飯
1月に引退を表明した車いすテニス界のレジェンド、国枝慎吾さん。Hondaが主催した福祉車両のイベントに登壇し、これまでのテニス人生を振り返った。テニスとの出会いから座右の銘「俺は最強だ」の誕生秘話まで、トークショーで熱く語った内容をレポートする。
「“俺は最強だ”って言葉を使ってきましたが、僕自身はメンタルが強いわけではないんです」
こう語るのは、今年1月、引退を発表した車いすテニスの国枝慎吾さんだ。
Hondaが主催した福祉車両の展示イベントのトークショーで、選手人生を振り返った。誰も成し得なかった生涯グランドスラムを達成した車いすテニス界のレジェンドは、いかにして生まれたのか――。
11才で出会った車いすテニス「気乗りしなかった」
9才のときに脊髄腫瘍を発病し車いす生活となった国枝さん。11才で車いすテニスに出会ったが、実は最初は乗り気ではなかったそうだ。
「車いす生活になる前は、少年野球をやっていました。巨人ファンで野球選手になりたかったんですよ。車いす生活になってからはバスケに夢中でした。『SLAM DUNK(スラムダンク)』世代で僕は三井寿に憧れていた。放課後に3オン3とかやって、あの頃からチェアワークは身に着けていました。だけど、車いすバスケのクラブは家から遠かったんです。今も通っているテニスクラブは、たまたま家から30分くらいのところにあって、伊達公子さんファンだった母のすすめで通うことになりました。
テニスは女性のスポーツというイメージがあって舐めていましたが、実際にやってみたら、こんなに激しいスポーツなのかと。始めはホームランばかり打っていましたが、練習に行くと先週より上手くなる。ラリーが繋がってサーブが入って、前回より上手くなる。その喜びを感じて成長を実感する、そうやって世界1位までやってきましたね」
テニスクラブでは、初めて車いすを利用する人たちと触れ合う機会も得た。
「車いすで生活する方たちのコミュニティに入ってみて、衝撃を受けました。車いすでひとり暮らしをして、車を自ら運転してテニスクラブに来ているのを見て、車いすだってひとりで生きてけるじゃんって思った。彼らからたくさんのことを学びましたね。
車いすの人は健常者よりもずっと車との距離が近いと思うんです。
僕自身は『オデッセイ』が気に入っていて3台乗り続けています。車に車いすを積む必要があるから、荷室が広い『オデッセイ』は車いすテニスの仲間たちも乗っている人が多いんですよ」
夢が目標に変わったコーチとの出会い
純粋に趣味として車いすテニスを楽しんでいた国枝さんに転機が訪れたのは高校1年生のとき。
「テニスクラブの理事長のすすめで海外遠征を経験しました。世界のトップ選手はラケット一本で生活をしている。しかも、海外の選手は血気盛んでラケットを投げて折るという姿も始めて見ました。なんだこれは、僕がやってきたスポーツとは全然違うぞと。テニスで食っているんだという情熱を目の当たりにして、胸を揺さぶられました。
彼らとネットを挟んで試合をしてみたい。それが初めて持った夢だったと思います」
「夢」がパラリンピックというはっきりとした「目標」に変わったのは、高校3年生のとき、世界トップレベルの選手を指導する丸山弘道コーチとの出会いだ。
「丸山コーチにプレイを見てもらったら『来週から俺のところに来いよ』と言われて。『もしかしたらパラリンピックを目指せるのかな』と思いました。夢が目標に変わって、どうしたらパラリンピックを目指せるだろうという思考になり、アスリートとしてのプロセスが始まりました」
丸山コーチに「彼は努力の天才」と称賛される国枝さん。遠征先では1日1000回以上の素振りをし、ひとつのショットを身に着けるために3万球を打ち込むという課題を課していた。そして、世界のトップになるカギとなったのが「俺は最強だ」というフレーズだ。
ラケットには、「俺は最強だ!リラックス」と自筆で書いたテープが貼ってある(実物写真)。