【連載エッセイ】介護という旅の途中に「第33回 海からの便り」
写真家でハーバリストとしても活躍する飯田裕子さんによるフォトエッセイ。父亡き後に認知症を発症した91才の母と千葉・勝浦で暮らす飯田さんが、日々の様子を美しい写真とともに綴ります。
今回は、夏から秋に変わる頃の飯田さん母娘の様子を振り返ります。
秋の入り口にジンジャーの花が咲き出した。甘い香りの白い花はハワイやタヒチを思い出す。
花の中を覗くと雌しべに小さなアリが甘い香りに誘われてここそこにいる。アリには別の花に移って貰い、花を一輪父の仏壇に手向けた。
夏にやってきてくれた友人僧侶が「仏様にとっては香りが一番のお供物になる」そう言っていたのを思い出したからだった。
母も顔を近づけて「ああ、なんていう花なの?いい香りねえ」と花に鼻を埋めて、昨年庭に株分けした苗が今年初めて花をつけたことを喜んだ。
勝浦近郊の海から山へかけて車を走らせていると、ジンジャーフラワーを結構見かけるので、海洋性気候にきっと合っているのだろう。
「軽井沢より涼しい」といわれる勝浦だが…
勝浦はこの夏テレビで盛んに紹介され、関東で一番涼しい場所としてにわかに話題になった。
「100年夏日を記録したことがない、軽井沢より涼しい」というが、その涼しさの原因は勝浦南沖の深海層の海水が沿岸近くに上がってきていて、南風が吹くとそれが冷房効果になるらしい。
夜になると海から発生した霧が、我が家のある山の上へも這うように上がってくる。全てが霧に包まれてしまう日も多々ある。海辺に降りれば晴れていてもだ。
実際、勝浦で暮らしていると、涼しさはあれど、海からの塩分を含んだ湿度との戦いでもあるのだ。写真機材や電子機器、電子レンジや車などには心配の種である。
気温だけ計測して「涼しくて良い」とは一概に言えないのが現地の事情かもしれない。
母は、海から上がってくる真っ白な霧が立ち込め、あたりが見えなくなると「お隣も来ていないでしょう?誰もいないのかしら」と不安げな顔をする。
コロナから回復しても2週間ばかり、母の食欲は細かった。
そこで、少しでも栄養価の高いものを、プロテインのシェイクを少量作ったり、好きなアイスクリームを脂肪分の高いものにしたりした。老人の介護食は「ダイエットの逆だよ」父がそう言っていたことを思い出した。
そして秋の虫の音が騒がしくなる頃には段々と母の食欲も増してきて元に戻った。しかし認知症に関しては以前よりも進んできた感じがする。寝てばかりいたのだからしょうがない。
テレビのニュースでコロナウイルス感染が拡大していると報じられていると「あら大変ねえ、変化な病気が広がって…」と、他人事の母。
「ねえ、ママもコロナに罹ったでしょう。入院したじゃない?」と言っても「はて?」といった表情。
「まあいいか!辛いことは覚えてなくてもいいかもねえ」と私。
「ママは、この分じゃ死んでも自分が死んだこと忘れそうよ」と冗談交じりに弟に電話で話した。「え?私、死んでるの~?」と言って、うろうろしてる可愛いい母の姿が浮かび電話越しに笑った。
久しぶりのにショートステイで元気を取り戻す
そして、ようやくショートステイへも行けるようにもなった。
家にいるとつい、食後でも昼間でも部屋に行き横になってばかりいた母。が、ショートステイ先では、想像どおり他人の視線もあり緊張感が生まれる。そして、人の輪の中にいると会話もする。
2週間の施設暮らしを経て帰ってきた母は、コロナ前の母にほぼ戻っていて本当に良かった。
久々にお蕎麦屋さんで外食をすると「施設でね、今回は人数が4名くらいで少なかったの。私が帰ると言うとねみんなが「またすぐに戻ってきてね!」と言ってくれてね、嬉しかったよ…」と話す母。
どんなに年齢を重ねても、人に必要とされ、求められることは人間として嬉しいことなのだ。
家にいると相手は私しかいない。私も雑事や仕事もあり、母と向き合う時間は食事の時くらい。だから施設にいるのも悪くない。母はほぼ一期一会のはずの施設で一緒になる人のことを「お友達」と呼ぶ。
そういう時の母の心境を想像し、ほっとする。
このごろ、朝食の時はこの会話が定番となっている。
神田の小学校低学年時代。戦前の東京の夏休み。母は決まって従姉妹の家に滞在していたという。
「うちと違ってハイカラでね、朝は必ずトーストよ。それが嬉しくてね。で、朝のトースト食べてる最中にもう外では『ケイちゃーん、遊ぼう~!』の大合唱が聴こえるの。すると『待っててね~、今ケイちゃん朝ごはん食べてるからね~』とおじさんが返事してね。それでもまた『ケイちゃん、遊ぼ~っ』って呼ぶのよ。皆ね、ケイちゃんが来るのを心待ちにしていたんだってさ」と楽しそうに話す。
「そうなんだ、ママ人気者だったんだね」と私は相槌を打つ。
そんなこともあり、時々朝にトーストを出す。すると母は「あらまあ」と嬉しそうに微笑んでくれるのだった。朝の日差しと共にきっとその「ケイちゃんコール」の声が蘇ってくる。自分を必要としてくれていたその声が…。
英国のエリザベス女王陛下がお亡くなり,その報せが世界を巡った。母にとっての孫は3人、英国にいるので我が家にとってはなんだか他人事ではない気もする。でも大人になった彼らのSNSを見てもそのことに対して、ことの他何もコメントはなく、意外と淡々としている。
「エリザベス女王さま、お幾つだったかしら?」と母。「96歳ですって!」と大声で返す私。
「私より年上なの?あらら」と言いながら、「うちは長生きの家系で困っちゃうわねえ、100歳まで生きるかしら?」と嬉しそうに話す母。激動の時代に君主としてご立派に人生の幕を閉じた女王陛下に敬意を払い、英国式の紅茶を淹れて母といただいた。
私は久しぶりに東京での写真展「海からの便りII」に向けて、準備に慌ただしく過ごし、母をショートステイに見送り東京へと向かった。
暑さとコロナと、母の介護…。その間を縫って雑誌の取材もあり、写真展を一つまとめることができるのか、不安な時期もあったがプリントや動画や写真集のデザインなど多くの方々の手を借りてスタートまで漕ぎ着けた。
写真家生活40年の節目でもあり、自分自身の感動に忠実に34点余りの作品を展示した。
海は自分をリセットしてくれる、私にとってはなくてはならない自然だ。新宿の高層ビル28階にあるギャラリーで、勝浦やポリネシアの海をお披露目する。季節はもう秋。母と私の勝浦暮らしはようやく1年を巡った。
写真・文/飯田裕子(いいだ・ゆうこ)
写真家・ハーバリスト。1960年東京生まれ、船橋育ち。現在は南房総を拠点に複数の地で暮らす。雑誌の取材などで、全国、世界各地を撮影して巡る。写真展「楽園創生」(京都ロンドクレアント)、「Bula Fiji」(フジフイルムフォトサロン)などを開催。近年は撮影と並行し、ハーバリストとしても活動中。HP:https://yukoiida.com/
Youtube:Yuko Iida 海からの便り
https://youtu.be/U7NkRY5S0yg
写真展 「海からの便りII」はVRバーチャルリアリティーでご覧いただけます。
https://www.nodaemon.site/photo/iida/tour.html