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日曜劇場をその黎明期から紐解く 石井・橋田コンビ『女たちの忠臣蔵』の誕生前夜

 現在放送中の『ドラゴン桜』も高視聴率で走るTBS「日曜劇場」。昭和史とドラマに詳しいライター・近藤正高さんが、数々の名作を鑑賞し直し、歴史をひもとき、コンテンツの魅力と強度の秘密に迫る人気連載です。今回は歴史編。かつては「東芝日曜劇場」だった時代、名プロデューサー石井ふく子とカリスマ脚本家・平岩弓枝、そして橋田壽賀子との出会いを確かめに、まずは1959年にタイムスリップ。

「花王名人劇場」と「東芝日曜劇場」

 かつてテレビでは日曜日の夜9時台に3つの「劇場」がしのぎを削っていた。テレビ朝日系の「日曜洋画劇場」、関西テレビ制作・フジテレビ系の「花王名人劇場」、それからTBS系の「東芝日曜劇場」である。この3つの番組には、1993年3月まである共通点があった。それは週ごとに内容が変わったということだ。

「日曜洋画劇場」では毎週違う映画が放送され(そのタイトルどおり放映されるのは洋画が中心であった)、「花王名人劇場」では、漫才や落語など笑芸の企画が週替わりで組まれたほか、芦屋雁之助主演の『裸の大将放浪記』をはじめドラマもときどき放送された。そして「東芝日曜劇場」は、いまでは連続ドラマ枠となり、タイトルからも頭の「東芝」が消えて久しいが、1993年3月まで単発ドラマ枠として、毎週1話で完結するドラマが放送されていた。

「日曜洋画劇場」では毎回、映画の始まる前と終わったあとに解説者として映画評論家の淀川長治が登場したが、「花王名人劇場」と「東芝日曜劇場」には基本的にレギュラー出演者はいなかった。週替わりで企画を立てねばならない上、普通なら番組の顔となるはずのレギュラー出演者がいないとなると、視聴率も世評もすべては企画の内容しだいであり、プロデューサーの手腕がはっきりと問われる。そんな厳しい条件のなかで、「花王名人劇場」は1979年10月の第1回から1990年3月の最終回まで10年半、「東芝日曜劇場」にいたっては1956年12月に始まって連続ドラマ枠に移行するまで36年3ヵ月も続く長寿番組となった。それもやはり、両番組にはそれぞれ澤田隆治、石井ふく子という名プロデューサーが存在したことが大きい。

澤田隆治と石井ふく子、二人のプロデューサー

 先ごろ亡くなった澤田は大阪・朝日放送の出身で、昭和30年代から『てなもんや三度笠』などのバラエティ番組を通じて全国のお茶の間に笑いを提供した。「花王名人劇場」は彼が設立した東阪企画が制作し、1980年に横山やすし・西川きよし、星セント・ルイス、B&Bなど東西の漫才コンビが競演した「激突!漫才新幹線」の企画が大評判をとり、漫才ブームのきっかけをつくった。

 一方、石井は住宅メーカー・日本電建の宣伝部員時代、スポンサーサイドの立場から当時ラジオ東京という社名だったTBSのラジオドラマ制作に携わるうちに、そのプロデュース能力を局の人間に見込まれ、日本電建に籍を置いたまま1958年から「東芝日曜劇場」を担当するようになる。現在のTBSテレビであるラジオ東京テレビ(KRテレビ)の開局の翌年にスタートした日曜劇場は、この時点でまだ3年目で、発展途上の段階にあった。というか、テレビドラマ自体が各局で試行錯誤しながらつくられていた時代である。

日曜劇場の生みの親、田中亮一プロデューサー

 そもそも日曜劇場は、田中亮一というプロデューサーが、先行するNHKや日本テレビに対抗すべく、KRテレビの特色となるような企画を考えてほしいと編成局長に命じられたのを発端に生まれた。大下英治のノンフィクション『石井ふく子 おんなの学校(上)』(文藝春秋)によれば、このとき、田中が考えに考えた末に思いついたのが、作家も作品も俳優も一流どころを集めて、1時間のドラマを毎週放送するという企画であった。当時のテレビ番組は長くてせいぜい30分だっただけに、1時間のドラマは未知の領域だった。

 田中は、多くの名優を口説き落としてテレビ出演の専属契約に応じてもらうなど、綿密に準備を進め、放送開始にこぎつける。もっとも、第1回はドラマではなく、祝いも兼ねて歌舞伎の舞踊劇『戻橋』が放送された。本格的なスタートは、第2回に放送された八木隆一郎原作・大江良太郎脚色の『命美(うる)わし』で、石井ふく子の義父で新派を代表する俳優だった伊志井寛などが出演した。歌舞伎・新派・新劇・映画と出身の異なる俳優を組み合わせた配役もテレビならではだった。

 田中はそれからまもなくしてKRテレビを離れ、1959年に開局を控えた日本教育テレビ(現・テレビ朝日)に移った。石井はその後任にと打診を受けたのだが、テレビドラマの制作など経験がなく、さすがに初めは断っている。しかし、KRテレビの編成局長と日本電建社長が話し合った結果、先述のとおり日本電建に籍を置いたまま日曜劇場を担当することになった。制作助手(いまでいうアシスタント・プロデューサー)として生放送に2回だけ立ち会ったあと、1958年9月7日放送の第93回からプロデューサーを任された。

石井、脚本家・橋田壽賀子と出会う

 石井が日曜劇場で最初にとりあげたのは三島由紀夫の小説『橋づくし』だった。ビデオ収録が普及前だったこのころ、ドラマはすべてスタジオからの生放送である。原作には7つの橋が登場するが、スタジオにすべての橋のセットをつくることはとてもできない。そこで橋のセットは2つだけにし、そのバックの暗幕にフィルムで撮った橋を映して、あたかも7つの橋が架かっているように見せることにする。スクリーン・プロセスというこの手法を、石井はプロデューサーになると決まってから勉強のため買い集めた技術書で知った。

 このときのキャストは石井自ら依頼して、山田五十鈴、渡辺美佐子、香川京子、京塚昌子と、新派・映画・新劇と各界から女優が出演した。渡辺は当時まだ新人、香川は石井が一時映画会社の新東宝で女優をしていたときからの親友であった。4人はその後も石井のドラマで重要な役を演じることになる。

 日曜劇場は毎週違うドラマが放送されるとあって、石井は常に原作を探していた。新人脚本家の発掘にも力を入れる。後年にいたるまで多くの作品を一緒に手がけることになる脚本家の橋田壽賀子と出会ったのは、日曜劇場を任されて5年ほど経った頃だった。すでにラジオ東京は1960年に東京放送(通称はTBS)と社名を変更し、石井も翌年よりTBSの社員となっていた。

 1959年に映画会社・松竹の脚本部をやめた橋田は、ほとんど活躍の機会がなかった映画界にさっさと見切りをつけ、新興メディアだったテレビに活路を見出した。とはいえ、テレビ業界にツテはほとんどなく、脚本を書いては局に持ち込む日々が数年続く。

『袋を渡せば』『愛と死をみつめて』……止まらない橋田の才能

 日本テレビのドラマで初めて脚本が採用された橋田は、1962年にはTBSの当時の人気ドラマ『七人の刑事』でも6話ほど書いた。このときのディレクターが橋田に石井を紹介してくれたのが2人の馴れ初めだった。初対面時、石井に「好きなものを書きなさい」と言われた橋田は、かねての持論である「夫がもらってくる給料の半分は妻の主婦費」をテーマにオリジナルのドラマを後日書き上げて持って行った。『袋を渡せば』というその作品を石井は一読するなり、「こういう話はいままで日曜劇場になかった」と即座に採用し、1964年1月に放送される。

 橋田はこのあと、ベストセラーとなっていた難病の女性と恋人の男性による書簡集『愛と死をみつめて』の脚色を石井から持ちかけらた。喜んで引き受けたものの、色々と書き込むうちに1時間の枠では収まらない分量になってしまう。石井はあきれながらも、しばらくするとやはりこれぐらいの分量は必要だと考え直し、スポンサーの東芝に枠を2時間とってほしいと掛け合った。先方の反応はにべもなかったが、石井がここぞとばかり、東芝のライバル会社である松下電器(現パナソニック)のドラマ枠に持っていくと啖呵を切ると、東芝側もしぶしぶ折れたという(橋田壽賀子『人生ムダなことはひとつもなかった 私の履歴書』大和書房)。結果的に同作は2回に分けて、1964年4月に放送された。

 石井は橋田にテレビドラマについて徹底的に叩き込んだ。映画の癖が抜けない橋田が、キザなセリフを書いてこようものなら、「こんな言葉、普通使う?」とダメ出しした。きつい口調になることもしょちゅうだった。橋田はあるとき、石井がやはり何作も一緒に仕事をしている平岩弓枝と電話しているのを聞いていたら、自分のときとは違う優しい口ぶりに驚いたという。当人に訊けば「あなたは怒って育つ人、平岩さんは褒めて育つ人、だから違うの」との言葉が返ってきた(『週刊新潮』2012年7月26日号)。

むしろ、ライバル関係だった橋田・石井コンビ

 石井と平岩のつきあいは橋田よりも早く、平岩が1959年に直木賞を受賞した小説『鏨師(たがねし)』を自ら脚色して日曜劇場でドラマ化したときに始まる。このコンビからは、日曜劇場初のカラー作品で人気シリーズとなった池内淳子主演の『女の味噌汁』をはじめ、木曜夜8時台の連続ドラマでも京塚昌子主演の『肝っ玉かあさん』や水前寺清子主演の『ありがとう』などホームドラマのヒット作があいついで生まれた。なかでも『ありがとう』は最高視聴率56.3%と、民放のドラマでは現在も破られていない数字を叩き出す。

 これに対して、意外にも橋田・石井のコンビからは長らく、視聴率が30%を超えるレベルの飛び抜けたヒット作、あるいは問題作といわれるようなドラマは生まれなかった。橋田が本領を発揮したのはむしろNHKで、70年代には『となりの芝生』『夫婦』といった嫁姑や老夫婦のいざこざを描いた作品が大きな反響を呼んだ。このうち1978年に「ドラマ人間模様」という枠で放送された『夫婦』は、日曜劇場と時間帯が重なっていた。このとき、石井にとって橋田は単なる盟友ではなく、手ごわいライバルにもなっていたことになる。

 しかし、2人はこの間も日曜劇場では「おんなの家」というシリーズでたびたびコンビを組みながら、1979年暮れにはドラマ史に画期をなす大作に挑み、高視聴率を記録することになる。次回はその作品、『女たちの忠臣蔵』について詳しくとりあげたい。

文/近藤正高 (こんどう・ まさたか)

ライター。1976年生まれ。ドラマを見ながら物語の背景などを深読みするのが大好き。著書に『タモリと戦後ニッポン』『ビートたけしと北野武』(いずれも講談社現代新書)などがある。

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