「ありのまま」「等身大の自分」信仰は不幸の始まり
「それは人間が生活に直接関係ないことにまで興味を持つからです。霊長類の研究者の間ではよく知られていることですが、霊長類は1~2歳まではめちゃくちゃ遊びます。ボールを与えればそれを使ってあらゆることをする。しかし3年くらい経つと遊ばなくなります。けれども人間は死ぬまで遊び続ける。子どもの性質を持ったまま大人になることを『ネオテニー』と言いますが、70、80歳になろうが人間は赤ちゃんなんですね」
確かに、好奇心旺盛な人の方が若々しいと聞いたことがある。それは生活以外の興味を持つことが子どもの証拠だからということか。
ユスクキュルによると、人間が見えている世界と同じものを動物が見ているわけではないという。そしてその世界は、同じ動物でも、状態によって見方が変わるというのだ。
「例えば、ヤドカリの前にイソギンチャクがいたとします。ヤドカリが宿となる貝に入っているときは、イソギンチャクを絶好のカモフラージュの道具として考え、貝に付けようとします。ヤドカリに宿がないときは、イソギンチャクを宿にしようとします。もしヤドカリが空腹なら、イソギンチャクを餌だと思い食べようとする。宿もあり、カモフラージュする必要もなく、お腹も空いていない場合は、ヤドカリはイソギンチャクに見向きもしません。認識しないのです。イソギンチャクは、カモフラージュの道具にされたり、宿にされたり、餌と認識されたり、そもそも認識もされなかったりする。つまり主体となる動物の状態によって、ものの見え方や捉え方が変わってくるんです」
人間は、つい自分を基準にものごとを考える。目の前にあるものは、ほかの人も同じように認識していると思いこんでいる。しかし、ひとりひとりまったく捉え方は違うし、感じ方も、価値も違う。しかも状況──たとえば満腹なのか空腹なのか、満たされているのかいないのかなど──によっても見え方が異なる。絶対的なものなどありえない。
「よく『自分探し』とか『等身大の自分』などと言う人がいます。同じように、早稲田大学の教授としての那須政玄は、本当の那須政玄じゃないだろうという人がいます。確かにそうです。私は妻と一緒にいれば『夫としての那須政玄』、子どもといれば『父親としての那須政玄』です。しかしぜんぶ『〇〇としての那須正弦』です。相手との関係によって、私という像は変わります。
人が生きづらい理由は〇〇されないから
人が生きづらい理由は〇〇されないから
どこかに『ハダカの自分』がいると考えている人がいますが、そんなものはありません。あるのは、すべて『誰かとの関係の中の自分』なのです。
ありのままの自分がいる、等身大の自分、ハダカの自分がどこかにいると考えるのは、不幸の始まりです。探したとしても決して見つかりません。ユクスキュルの言っていることは生物学でありながら、自分のこととして考えられる哲学なのです」
ありのままの自分でいることに憧れる人は少なくなさそうだ。だがそれは幻想だという。結局は、自分の存在というのは、誰かとの関係の中で成り立つからだ。
人が生きづらいのは、ありのままでいられなかったからではなく、他人から認められないから。『アナと雪の女王』でも、エルサが生きにくかったのは、認めてもらえなかったからだ(しかも自分の両親に!)。結局、大団円を迎えた後も、彼女を否定する人間が現れたら、また辛くなることには変わりがない。
誰もが他人を尊重できたら、自分を否定されることもなく、生きづらさも軽減されるだろう。となると、自分にできることは「ハダカの自分」になることではなくて、他人を尊重することに尽きそうだ。
取材講座:「哲学 ― 常識批判の基盤を形成するために ― 」の第6回「人間と動物―動物は人間よりも劣っているのか―」(早稲田大学エクステンションセンター中野校)
文/和久井香菜子 写真/和久井香菜子(講座写真)、SVD、(c)Saruri、(c)Robert Kneschke、(c)Africa Studio / fotolia
初出:まなナビ