治療しないと決意した母(写真中央)が退院した日。たまたまその日は弟の誕生日で弟夫婦、私(写真後列左)たち夫婦と一緒にお祝いした(写真提供/石原壮一郎、以下同)
病床で書いて、弟に託したメモ。一度も話したことがなかった「連絡事項」が綴られている。メモ用紙は、たばこの販売店をしていた母が長く使っていたもの。「マイルドセブン・ライト」が発売された昭和60年頃、日本専売公社から名前が変わったばかりの日本たばこ産業(JT)からもらったと思われる。物持ちのいい人だった
ケーキを用意して。母を交えた顔ぶれで息子夫婦揃った最初で最後のバースデー祝いとなった。食事に制限があった母も、小さなケーキを一個食べた
投稿が新聞に掲載されると、その部分をマーカーで囲み、切り抜いてファイルに収めるのが母のルーティンだった。毎回、この作業を誰と話すこともなくひとりで行なっていたと思うと、いっしょに喜んであげられなくて申し訳ない気持ちになる。きっと母は、そんなふうには考えてはいないだろうけど
令和7年3月11日付「夕刊三重」より。退院後に初めて掲載された投稿である。最後の段落に「残りの人生~」とあるが、退院した頃の母は「あと半年か、1年か3年か、それはわからんけど」と何度も言っていた。しかし実際は、当人の控え目な想定である「半年」にも届かなかった
写真左は、本棚にいちばん下の段にあったファイルの束。掲載された投稿の切り抜きが、年代順に収められている。これまでは、ほとんど読んだことはなかった。写真右、昭和54年12月8日付「夕刊三重」の「発言」に掲載された「なつかしの大河内中学校」が、生まれて初めて掲載された投稿である。当時、母は37歳だった