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暮らし

「洪水に襲われた老人ホーム」高齢者・介護スタッフ“奇跡の避難”一部始終

 昨年7月、全国広い範囲を襲った集中豪雨。この豪雨により、西日本を中心に多くの地域で河川の氾濫や浸水害、土砂災害が発生し、多数の死者が出る甚大な被害をもたらした。

 このとき、“奇跡の避難”を行ったと語られる老人ホームが岡山県倉敷市にある。施設長に当時の様子を伺い、リポートする。車椅子の高齢者が入居する施設で、どのように避難が行われたのか…。いつ起こるかわからない自然の脅威を前に、私たちが学ぶべきことが何だろうか。

住宅が2階まで水に浸かっている

河川が氾濫し住宅の2階まで水が上がるほどの被害を被った(画像提供/クレールエステート悠楽)

 * * *

 後に『平成30年7月豪雨』と名付けられた、大きな被害を経験した岡山県倉敷市の真備町。屋上ギリギリまで水に浸かった特別養護老人ホーム『クレールエステート悠楽』は、当時施設を利用していた36名のお年寄りを、スタッフのファインプレーで無事別の施設に移動することができた。

→施設利用者の避難の様子は前編を参照編

 ホッとしたのもつかの間、浸水はみるみる嵩をましていき、気がつくと周りはまるで海のような状態となってしまったのだった。

 お話を伺うのは前編に引き続き施設長の岸本祥一氏だ。

平屋造りの介護施設の中に介護スタッフ24人が取り残された

 2018年7月6日。降り続いた激しい雨が、近隣の河川を氾濫させ、施設には後戻りできない危機が迫っていた。

 車7台を使って、36名のお年寄りをピストン方式で別施設に送り届ける作業が完了したのは日付が変わるころだった。雨はまだ止みそうにない。

「利用者はすんでのことろで避難させたが、このままではスタッフたちを遭難させてしまうことになりかねない」

 施設長の岸本氏は思った。

 どこか高いところに避難しなければ。しかし、クレールエステート悠楽は平屋造りだ。フラットな構造は、全体が見渡しやすく、介護施設としては便利なのだが……。
 当時、岸本氏を含め24人が、施設に取り残されていた。
 
 倉庫を探すと、背の高い脚立が見つかった。中庭に、少しだけ屋根が低くなっている場所がある。脚立を伸ばすと上にあがれそうだ。

 岸本氏はスタッフたちに、屋上に避難することを告げる。7月7日、午前1時のことだった。

「とにかく必要だと思うもの」を持っていく

「屋上に避難することは決めても、何をしたらいいのかはまったくわかりません。なにせ初めて経験ですから。どのくらいで助けがくるのか、屋上には何を持っていけばいいのか全くわからない。だからスタッフたちには“とにかく必要だと思われるもの”を持っていくように指示しました」(以下「」内は全て岸本氏)

 豪雨の中での避難だ、傘や雨合羽などはできるだけ集めた。お菓子やお茶、水などを持っていくスタッフもいた。他にもゴミ袋、毛布、タオル……あらゆるものが集められた。

「なかには“おむつも持っていっていいですか”という女性スタッフもいました。とにかく、必要と思うなら、ということで各自各様のものを持って、脚立を上がりました」

 洪水の避難におむつが役に立つとは思わなかったが、岸本氏は各自の以降を否定せず、準備を進めた。のちのち、このおむつが思わぬ助けとなる。

 24人は無事、屋上に避難することができた。が、雨はいっこうに勢力を弱める気配はない。しばらくすると、辺り一帯が停電になった。もちろん月明かりもない。漆黒のなか、叩きつける雨の音だけが響いていた。

ポンチョ代わりのゴミ袋、冷え対策には紙おむつが役立った

「うちの施設は、屋根が平たい作りになっています。だから足場は悪くありません。ただ、雨は容赦なく振り続けます。軒数10センチほど張り出している場所があって、24人はそこに傘をさして、じっとしていました」

 軒と傘があるとはいえ、激しい豪雨は体を濡らす。24人全員が下着までずぶ濡れの状態だった。季節は真夏だが、夜中、しかも長時間雨にうたれている。また、夏だからこそ皆薄着だ。体は芯から冷え切っていた。

「役に立ったのが大きなゴミ袋です。穴を開けてポンチョのように着ることで、かなり寒さを凌ぐことができました。あと、思いもよらなかったのが、紙おむつです。冷え性の女性はこれをズボンの上から履いて下半身を冷えから守っていました」

 夜中、救助が始まる気配はない。屋上から下の駐車場をのぞくと、水が乗用車のライトのあたりまできているのが見えた。

 浸水の影響で車の電気系統が誤作動するのか、ヘッドライトが点きっぱなしになったり、ハザードランプが点滅したり、突然クラクションが鳴ったり。闇の中でそうしたことが起こり始めた。

 大停電によるブラックアウトのなか、車たちが正気を失い、突如騒ぎだしたようで不気味だった。ただその頃までは、車のヘッドライトが見えるレベルの浸水だったわけだ。

とうとう小田川の堤防が決壊した 

「屋上にある高窓から施設の中が見えるのですが、中はまさに川になっていました。机はひっくり返り、椅子はひっくり返りの状況。でもひたすら何もできないまま見ている状況でした」

 ただ、あたりはブラックアウトの状態だ。町を流れるいくつかの河川がどうなっているのか、知るすべはない。

「施設の東側、わずか100メートルほどのところに末政川という河川があって、どうやらこの堤防を超えたようなんです。夜中で、正確な時間はわかりませんが、そのころから水かさの増え方が目に見えて早くなってきました。東から西に向かって川のような流れが施設の屋上からも見ることができました」

 空が薄っすらと白み始めたころ、今度は末政川の本流である小田川の堤防が破れた。

「屋上からの景色が突然変わりました。それまで東から西に流れていた水が、こんどは西から東の流れに変わったんです。末政川を超えた水ではなく、もっと大きな小田川の堤防が切れたことが理由です。これを境に水かさはいっきに増していきました。流れも突然のように激しくなり、渦を巻いて流れ込むようでした」
 
 岸本施設長に初めて恐怖が押し寄せてきた。

 現場の長として、24人の全員の無事を確保しなければ──

寒さ、睡魔、トイレ…との闘い

 寒さとの戦いの次は眠気が襲ってきた。しかしあたりは水浸しだ。横になれる場所はない。岸本氏はスタッフに声をかけて、励ました。

「そして、もうひとつ困ったのがトイレの問題でした」

 当然だが屋上にトイレはない。岸本氏は自身も、寒さと眠気に挫けそうになりながら、次善策を考えた。
 
「夜中は停電していることもあり、真っ暗ですから、男は建物の隅っこにいってちゃちゃっとできるのですが、女性はそういうわけにもいきません。流れてきた大きめの材木や廃材などを集めて柱を作り、これにシーツや毛布をかぶせて即席のテントを作りました」

 この時も持って上がった紙おむつが役立った。女性はテントの中でおむつを履き、用を足したのだった。

「夜が明けて、8時とか9時くらいになってくると、やっと本格的な救助が始まりました。自衛隊や消防のヘリコプターが目立ち始めまたのもこのころです」

 水は屋上ぎりぎり、手を伸ばせば届くほどの場所まできていた。あわやという状況で、雨はやっと勢いを弱め始め、浸水が止まってくれた。まさに奇跡のタイミングだった。

目の前を通り過ぎる救助ヘリコプター

 時を同じくして、消防や自衛隊のボートも見られるようになる。ただ、クレールエステート悠楽にはなぜか止まってくれない。「後できますから」と声を残して、目の前を過ぎ去るだけだった。

「我々の施設は屋上がフラットで、足場がいい。ところが一般の住宅は屋根が斜めになっていたりします。つまり不安定な場所にしがみつくように助けを待っているひとたちがたくさんいらしたんです。自衛隊も消防もそちらを優先していたということ。でもね、当時は『どうして我々を救助してくれないんだ』と内心イライラしていました」

 夜中は激しい雨に降りつけられ、全身びしょ濡れで寒さとの戦いだったが、明けて7日は雨があがり、太陽が顔を出した。7月の日差しに照りつけられて、こんどは暑さとの闘いが始まった。

「昼間になると、捜索隊の側も被害の状況がだんだんわかってきたのだと思います。助けを求める人の数は想定より多かったのかもしれません。ある時点から、この施設が避難の中継所として利用されるようになってきたんです」

施設の屋上が地域救助の中継基地になったが…

 岸本氏たちが助けを求めるクレールエステートの屋上に、消防や自衛隊のボートが立ち寄るようになってきた。施設のスタッフを救助するためではない。別の場所に避難していた人をここで下ろすのだ。空になったボートはまた別の場所に向けて行ってしまう。

「この屋上には一時60人くらいが避難していました。つまり避難場所の中継地点になっていたわけです」

 昨晩からの疲労に加え7月の強い日差しに晒され、体力は消耗する一方。助けはなかなかこない。スタッフ全員が忍耐の限界を感じてた。施設長の岸本氏は皆に声がけし、励まし続けた。

全員が救助されたのは避難から20時間以上経過してから

 日が傾き始めた18時ころ、屋上に取り残された数十人は自衛隊、消防のボートによってようやく救出された。

 利用者の方々を避難させ始めたのが前夜の22時過ぎだ。そこから20時間以上経過して、スタッフ全員の避難が完了した。
 
 施設への激しい浸水が始まる直前に、利用者の避難を完了していたことが、その後につながっている。1時間遅れていたら、最悪の事態を招いていたかもしれない。

 また、避難場所となった施設の屋上でもゴミ袋や紙おむつが思いがけないほど役に立った。そしてなにより雨が、施設の屋根全体を飲み込む寸前で、止んでくれた。

施設利用の高齢者を守るために避難先での工夫

 いくつかの奇跡が重なったことで、利用者とスタッフ全員が無傷で避難することができたといえる。

「36名の利用者を受け入れる側の施設に、それだけのスペースがあったことも大きかった。ただ、避難生活の始めは床に直接マットレスや布団を敷いて寝起きしていたし、パーテーションなどを持ち込んで、なるべくプライバシーに配慮した介護を心がけたのですが、やはり限界もありました」

 オムツ替えや、着替え介助など、いつもはベッド上での作業だ。しかし、避難先での生活がスタートしてすぐのころは、床の上に敷いた布団やマットレスの上での介助だった。

「ベッドでの介助に慣れていると、布団での介助は腰を痛める原因にもなります。ダンボール箱や棚などを並べ、足的のベッドを作るなどして対処しました」

 もちろん、一方では取り引きのある業者に以来し、介護ベッドや布団、シーツなど、最低限必要なものを集めた。

 避難所でおろそかになりがちなのが、プライバシーの確保だ。
 
「オムツ替えのときなど、タオルやシーツなどを使って急造のパーテーションを立てるなどの工夫をしましたが、限界があります。調べてみると、建築家の坂茂さんが考案した“避難所用・紙の間仕切りシステム”というものがあることがわかりました。早速問い合わせたところ、『すぐにでも行きます』との返事をもらえたんです」

『避難所用・紙の間仕切りシステム(PPS)』というそのシステムは、再生紙を利用した紙の筒と布で構成された簡易的な間仕切りだ。組み立てが簡単で軽く、持ち運びにも便利だ。短時間で設置でき、使用後はリサイクルも可能だ。

「ボランティアの学生を引き連れてすぐにきて、その日のうちに立派な間仕切りを完成させてくれました」

 以降、約7か月をここで暮らした利用者の方々も、今ではもとのクレールエステート悠楽に戻っている。

「本当に大変な経験でしたが、ご利用者の皆さんには大きな混乱はありませんでした。今回の経験を生かして、次はもっと上手にやれそうだと思っています。まぁ、正直二度目はごめんですけどね(笑い)」

 “奇跡の避難”と語られるが、決して奇跡ではない。老人ホームの利用者の安全のために介護スタッフが迅速に判断、対処をした結果が全員無事という結果を生んだ。災害大国と言われる我が国。いつ起きてもおかしくない災害を前に、こういった事例を教訓にしたいものだ。

【データ】
社会福祉法人 幸風会
『特別養護老人ホーム クレールエステート悠楽』
施設長 岸本祥一氏
住所:岡山県倉敷市真備町有井1472

撮影・取材・文/末並俊司

『週刊ポスト』を中心に活動するライター。2015年に母、16年に父が要介護状態となり、姉夫婦と協力して両親を自宅にて介護。また平行して16年後半に介護職員初任者研修(旧ヘルパー2級)を修了。その後17年に母、18年に父を自宅にて看取る。現在は東京都台東区にあるホスピスケア施設にて週に1回のボランティア活動を行っている。 

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