「痴呆」や「ニンチ」、介護の世界で差別にあたる言葉とは?
認知症の母を盛岡ー東京の遠距離で介護している工藤広伸さん。その経験をブログや書籍などで発信し、介護中の人へのアドバイスのみならず、介護を始める前の人にも役立つ情報として公開している。
当サイトでも、工藤さんの介護経験にまつわるエピソードを連載で紹介してもらっているが、今回は、認知症の人やその家族が、差別と受け取ってしまう可能性がある言葉とその理由について、教えてもらった。
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家族の介護を文章や講演で発信する立場として、言葉選びは慎重に行っています。なぜかというと、介護の世界においても、差別と受け取られる用語が存在しているからです。
どういった表現が差別にあたるのかについて、まとめてみました
「ニンチ」と言われたときの違和感
まずは「認知症」についてです。
2004年以前は「痴呆症」と呼ばれていましたが、「痴呆」という言葉がもつ不快感、侮辱感から、厚生労働省は「認知症」という呼び方に変えました。当時の厚労省の報告書には、次のような記述があります。
『「痴呆」という用語に不快感や侮蔑感を感じるかどうかについては、(1)一般的な用語や行政用語として用いられる場合に、不快感や軽蔑した感じを「感じる」56.2%、「感じない」36.8%、(2) 病院等で診断名や疾病名として使用される場合に、不快感や軽蔑した感じを「感じる」48.9%、「感じない」43.5%であった』(引用元:『「痴呆」に替わる用語に関する検討会報告書(厚生労働省)』)
「痴呆」という言葉が差別語だという認識が広まったこともあって、今では「認知症」という言葉を使う人のほうが、多いように思います。
この「認知症」という言葉を「ニンチ」と略して使われることがあります。
例えば、「あの人、ニンチでしょ?」とか「ニンチ、進みました?」と言った具合です。このように、認知症が「ニンチ」と略して使われた場合のみ、差別的に感じる人がいます。
わたしも民生委員から「お母様は、ニンチ入ってますか?」と言われた経験があります。当時、「ニンチ」という言葉が差別的であるという認識はなかったのですが、それでも不思議と違和感があり、イラっとしました。
なぜそう感じたのかを自己分析してみると、「ニンチ」と言葉自体ではなく、民生委員の態度や声のトーン、前後の文脈も含めて、イラっとしたのだと思います。民生委員の言葉には、認知症の人は何もできないという決めつけがあるように思えたのです。
確かに母は、認知症になって出来ないことは増えましたが、それでもまだまだ自分でやれることはあります。「母は何もできないわけではない」という、反発の気持ちがわたしの中にあったのかもしれません。
最近では、認知症当事者の方から「徘徊」という言葉を使わないで欲しいという声があり、それに応じたマスコミも「ひとり歩き」などの言葉で代替するケースが増えてきました。
「徘徊」は、ひとり目的もなく、さまよい歩くという意味で使われてきたのですが、認知症の人は何か目的を持って歩いていることが多く、決してさまよい歩いているわけではないことから、「徘徊」と呼ぶことは不適切であるとして、そういう動きが広まっています。
差別や偏見の気持ちを持たないことが大切
わたしのような介護者や、医療・介護の仕事に就いている人は、こういった表現に敏感なので、差別的な使い方には気をつけている場合が多いと思います。しかし、介護経験のない方は、介護を受けている人の気持ちを知る機会も少ないですし、こういった動きを知りません。
先日、介護経験のないわたしの友人が「あぁ、ニンチの人ね」と言ったので、「その表現、差別ととられることもあるよ」と伝えました。あくまでアドバイスであり、決して「使ってはいけない」と強制はしていません。というのも、行き過ぎた言葉の制限は「言葉狩り」と取られることもあるからです。
「言葉狩り」とは、今まで普通に使われていた言葉が、社会的に不適切と判断されてしまうという意味です。明確な基準がないのに、差別と見なされるかもしれない言葉そのものの使用を過度に自粛することや、過剰に配慮しすぎることは、ただの言葉狩りに過ぎないと考える人もいます。
先ほどの厚労省のデータでも、4割の人は「痴呆」という言葉に不快感を持っていませんでした。2004年当時は「痴呆」を不快に思わなかった人も多くいたようですが、あれから14年が経過した今では、その割合は減っているような気がします。
わたしも自著やコラムなどで「徘徊」という言葉を使用していましたが、現在は「ひとり歩き」などの言葉に置き換えるようにしています。それが時代の流れだと思っているのですが、残念ながら「ひとり歩き」では伝わらないことのほうが多いので、補足として「以前は徘徊と言われていた」と説明することもあります。
言葉の使い方は、時代によってどんどん変化していきます。差別にあたるかどうかは、言葉自体がその時代にそぐわないかどうかを見極めることなのかもしれません。
アナウンサーの方が「一部不適切な表現がありましたことを、深くお詫び申し上げます」という場面に出くわしたことがあると思います。視聴者は、その不適切な表現を理解できていればいいのですが、「どこが不適切なのか分からなかった」ということも、正直あるのではないでしょうか?
わたしはネットで検索をして、何が不適切だったのかを調べるようにしているのですが、そうやって時代にそぐわない言葉を理解していく必要があると思います。
そして何より、言葉を発している人自身が、認知症への差別や偏見を持たないことが一番大切ではないでしょうか。
今日もしれっと、しれっと。
工藤広伸(くどうひろのぶ)
祖母(認知症+子宮頸がん・要介護3)と母のW遠距離介護。2013年3月に介護退職。同年11月、祖母死去。現在も東京と岩手を年間約20往復、書くことを生業にしれっと介護を続ける介護作家・ブロガー。認知症ライフパートナー2級、認知症介助士、なないろのとびら診療所(岩手県盛岡市)地域医療推進室非常勤。ブログ「40歳からの遠距離介護」運営(https://40kaigo.net/)
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