シニア特急~初老の歴史家、ウェールズを征く<11>~【連載 エッセイ】
長年、イギリス史を研究してきた、歴史家でエッセイストの桜井俊彰氏は、60代半ばにして、自身にとって「行かなければいけない場所」であったウェールズへの旅に出かけます。
桜井さんのウェールズ旅の軌跡を、歴史の解説とともに綴った、新しいカタチの「歴史エッセイ」の連載が始まりました。
若いときには気づかない発見や感動…。シニア世代だからこそ得られる喜びと教養を。
さあ、『シニア特急』の旅をご一緒しましょう!
【前回までのあらすじ】
ウェールズの大聖堂「セント・デイヴィッズ」にゆかりの深い『ジェラルド・オブ・ウェールズ』の本を日本人向けに出版した桜井氏は、「セント・デイヴィッズ」に訪れ、その著作を寄贈することを夢見ていた。
そして、ついに念願が叶い、ウェールズへの旅へ出発する。
飛行機、列車、バスを乗り継ぎ、無事に目的地である大聖堂「セント・デイヴィッズ」のある街、セント・デイヴィッズに到着した。
宿であるB&Bの「Ty Helyg(ティー・へリグ)」へは、早めに到着。荷をほどき、早速、大聖堂を目指す。第7回、第8回、第9回での、大聖堂「セント・デイヴィッズ」と、「ジェラルド・オブ・ウェールズ」についての解説を経て、いよいよ、目的地を目指す。カテドラルは土地の谷底にそびえ建っていた。神聖なる聖堂の中入り、案内の人に「ジェラルド・オブ・ウェールズとロード・フリースの眠る石棺があるのか」と尋ねる…。
V カテドラルで、20年目の邂逅【2】
(2017年/4月/10 セント・デイヴィッズ)
●ジェラルド・オブ・ウェールズ、ここにいる!
フリース・アプ・グリフィズ(Rhys ap Gruffydd,1132-1197)は、ロード・フリース(Lord Rhys)とも呼ばれた南西ウェールズの王国デハイバース(Deuheubarth)の君主であり、ジェラルド・オブ・ウェールズの血族である。
デハイバース王国は、フリースの祖父であるフリース・アプ・テウドゥールが侵入してきたノルマン人に殺害されたことで滅亡しかかったが、フリースによって再び興隆の時を迎え、彼は全ウェールズにおいて反ノルマン闘争のリーダーとなる。
その統率力と一種のカリスマ性で、フリースはイングランド側から一目置かれる存在だった。
このフリースの叔母(父グリフィズの妹)がネストであり、ネストの孫がジェラルド・オブ・ウェールズなのだ。
ネストは大変な美人だったと伝えられており、あのトロイのヘレンにちなんで「ウェールズのヘレン」と呼ばれたという。
そのネストの夫が、勇猛高きノルマン人のジェラルド・オブ・ウィンザーであり、孫のジェラルド・オブ・ウェールズはつねにこの祖父を自慢していた。
ジェラルド・オブ・ウィンザーはイングランド国王ヘンリー1世の信頼厚き武将だった。
ちなみにヘンリー1世はネストを内妻にしていたことがあり、ジェラルド・オブ・ウィンザーは、だから「殿のおさがり」をもらったことになる。
さておき、ここにロード・フリースとジェラルドが眠っていることはこれで確証を得た。
もっとも、ジェラルドに関しては、彼がここにいるかもしれないとの情報を私が得たのは、そんなに前のことではない。
さまざまな史料では、”2回目の「セント・デイヴィッズ」の司教選挙に敗れたジェラルドはイングランドのリンカンに隠棲した”とあり、そして彼の最終地、つまり亡くなった地はヘレフォードとされている。
私自身、自著でジェラルドのことをそのように書いている。
が、ある時、WEBでジェラルドの石棺が「セント・デイヴィッズ」に置かれているという記事を目にし、またそれらしき写真も載っていたので、たぶん死んだ後に遺体が彼に所縁の深いこの大聖堂に移されたのだろうと思うようになった。
実際、遺体が後になって移されるということはよくある。
ジェラルドはここにいた。よしっ。
●20年目の邂逅
写真撮影の許可をもらった私は、撮影OKのシールを胸に貼り、大聖堂の奥へとゆっくりと進む。
回廊の両側の隅に、さまざまな石棺が置かれている。等身大の人物像を棺の蓋に彫ってあるものもあれば、ただ石の蓋を乗せたものもある。
壁にも横穴が掘られ、そこに石棺が収まっている。ある石棺の説明文を読む。” unknown bishop’s tomb “とある。
名と業績がきっちりと説明文に記された棺もあれば、こうした無名のものもある。けれども、これらはみなこの大聖堂に所縁のあった、そして貢献してきた人々ないし聖職者の墓なのだ。
さらに回廊を奥へと進む。こうしてみると小さく思えた「セント・デイヴィッズ」もなかなか広い。
まだまだ奥が、この先が延々と続いているような気がする。たぶん、それは私が何一つ見こぼすまいとゆっくり歩いているせいなのかもしれない。
回廊の左側の隅に、見覚えのある石棺が見えた。
やや頭を持ち上げた、中世初期の鎖帷子(くさりかたびら)風の兜と甲冑を身に着けた人物像が掘られた石棺。
ロード・フリースだ。この石棺写真を私は自著に載せている。だからすぐにわかった。
説明文を読む。間違いない。デハイバースの君主、フリース・アプ・グリフィズ。
ジェラルドと同時代を生きた彼の血族である。ただ、説明文には14世紀の彫像とある。
彼が亡くなったのは1197年だから、この像はだいぶ後になって作られたことになる。してみると、彼の威光は長く伝わっていたのだろう。だから後世になっても、人が敬意をこめて彫ったのだろう。
ふと、視線を少し先に移した。
ロード・フリースのすぐ奥に、もう一つ、石棺があった。こちらの蓋にも全身像が掘られている。それは甲冑姿の武人ではなく、明らかに僧衣をまとっている。ただそれは所々破損していて、とくに顔の部分は大きく剥がれ表情はわからない。誰かが意図的に彫像を削ったようにも見える。
急ぎ棺の上に置かれている説明文に見入る。Giraldus Cambrensis(1147-1223)とある。
ギラルダス・カンブレンシス!
―─おお、ジェラルド・オブ・ウェールズだ! いた。ここにいた。ついに会えた。ジェラルドに!──
ほんの少しの間、そう、わずかな時間だったと思う。私はジェラルドの棺を遠巻きに眺めていた。
が、すぐに近づき、右手を恐る恐る差し出して、ジェラルドの棺に触れた。撫でた。左手も続いた。両手で、ゆっくりと、撫でた。
冷たいとか、ごつごつしているとか、そういう感触はまったくなかった。とにかく撫でたかった。それで精いっぱいだった。
それがその時、できうる限りの私の最大の敬意と、感謝だった。涙はまったく出なかった。たぶん、はたから見ても私はものすごく無表情だったと思う。
でも、心の底から感激していたのだ。人はずっと会いたいと思っていた人に会えた時、いろいろな気持ちの交錯を通り越して、かえって穏やかになるのかもしれない。20年思い続けた人が、私の目の前で眠っていた。
●間違いなく、本人である
説明文を詳しく読む。
「この石棺はジェラルド・オブ・ウェールズのものだと信じられているが、甥のジェラルドの可能性もある…」とある。
ジェラルドと同名の、甥のジェラルドとは、ジェラルドの長兄でマノービアの領主だったフィリップの息子である。
南西ウェールズの大物ノルマン・マーチャーだったフィリップは、ウェールズの大司教になろうとするジェラルドの闘いを金銭面で全面的にバックアップし、終始、弟と共にあった頼もしい兄だった。
だが、それゆえカンタベリー大司教ヒューバート・ウォルターから睨まれ、ジェラルドへの支援を止めないと破門すると脅され、しかし、まったく動じなかったためについに破門されてしまった。
ジェラルドは第2回目の6年続いたローマ教皇までも巻き込んだ「セント・デイヴィッズ」の司教選挙に敗北した後も、まだ闘うつもりだった。
けれども彼は最終的にヒューバート・ウォルターから取引を持ちかけられるのである。
フィリップの息子のジェラルドをブレコンの副司教にするから、もういい加減に手を引けと。さすがのジェラルドも、兄のこれまでの自分に対する献身を考え、闘いを終了せざるを得なかったという経緯がある。
このブレコンの副司教になった長兄フィリップの息子が、説明文に棺の主として可能性はあると記されている甥のジェラルドなのだ。
●ジェラルドのチャペル
ただ、私にはここに眠っているのは甥ではなく、ジェラルド・オブ・ウェールズに間違いないという確信がある。
それは絶対に正しい。この棺の説明文にしたところで、100パーセントの証拠が単にないゆえに、甥の可能性もあると「逃げ」を作っているにすぎない。
なぜそう信じるかというと、この棺の意図的な損傷の跡に理由がある。
ジェラルドほど敵を多く作った聖職者もいない。ジェラルドの敵側だったイングランドはもちろん、ここウェールズにもフランドル人を始め、税の強制徴収、武力による脅し、そして破門を行使され、恨みが骨髄まで染み込んだ人々がいたはずだ。もちろん聖職界にも、ジェラルドの信条や行動に反感を抱く勢力はあったに違いない。
そうした人間や地域の怒りは、簡単に消えることはなく継承され、ゆえにとうに世を去ったジェラルドの棺に人々の怒りがぶつけられても不思議はない。
とくに彫像の顔が削られたようにないのは、意図的に破壊されたことを強く示唆している。こんなことをされるのは、あちこちで相当恨みを買ったであろうジェラルド本人しか考えられない。甥では役不足なのである。
ジェラルドに関してはもう一つ、驚いたことがあった。
彼の石棺が置かれているところから少し奥の場所に、小さな礼拝堂があった。
そこには何と等身大のジェラルドの立像があった。そう、そこはジェラルド・オブ・ウェールズのチャペルだったのだ。
左手に書物を抱え、右手に羽根ペンを持ったそのジェラルドの彫像は、いかにも聖職者らしく威厳に満ちた、しかし穏やかな表情を浮かべていた。
ジェラルドに向かいあう形でベンチが置いてあったので、私は座る。
LUMIX(カメラ)から標準レンズを外し、ズームを装着してジェラルドの表情に焦点を合わせる。シャッターを何回も押す。
先ほどの石棺といい、私のカメラのSDカードにはジェラルドがいっぱい詰まっている。
満足だ。本懐である。
●あの、エドモンド・テューダーがいる!
加えて、さらに私をびっくりさせたものがこの「セント・デイヴィッズ」にはあった。
大聖堂の最奥部に達し、歩いていた回廊を戻り始めた私の目に飛び込んできた大きく、豪華な石棺。
実はそれはさっきみつけたもので、じっくりと見ようと近づいていったのだが、数人の見学者が取り囲んでいてなかなか離れる様子がなかったのでその時は諦め、帰りに寄ろうと思っていたものだった。幸い、いまは誰もいない。棺の説明文に目を通す。
―─うわっ、ほんとなのか。エドモンド・テューダーだ!―─
リッチモンド伯エドモンド・テューダー。イギリス絶対王政の道を開いたテューダー朝の開祖、ヘンリー7世の父親である。
エドモンドの父はウェールズ人のオワイン・テューダーであり、母はイングランド国王ヘンリー5世の未亡人キャサリン・オブ・ヴァロアだった。
時代は、長かった英仏百年戦争が終わり、引き続いて起こった、イギリスの内戦であるばら戦争たけなわの頃。
エドモンドの妻は赤バラの紋章、ランカスター家の王位継承権を持ったマーガレット・ボフォートだったが、彼は生まれてくるわが子ヘンリーを見ることはかなわなかった。
エドモンドが守っていたウェールズのカーマゼン城が赤ばらのヨーク家の攻勢で陥落し、彼はそのまま城の牢(ろう)に入れられ、そこでペストにかかって死んでしまうのである。
この時ヘンリーを宿したマーガレット・ボフォートは、エドモンドの居城であるリッチモンド城にいたが、心配したエドモンドの弟でペンブローク伯であるジャスパー・テューダーが駆けつけ、マーガレットを自分の居城であるペンブローク城に連れていき、そこでヘンリー・テューダー、すなわち後のイングランド国王ヘンリー7世は叔父ジャスパーに守られて生まれ、育てられるのである。
この、イギリスを近代へと向かわせた歴史的イングランド国王ヘンリー7世の父親がここにいる。
「セント・デイヴィッズ」に葬られている者の事前リストとして、私の頭に入ってなかっただけに、エドモンド・テューダーとの遭遇は驚きであり、表現は変だが、とても嬉しかった。
そのテューダー家と深い所縁のあるペンブローク城に私は明日行く。わくわくする。
桜井俊彰(さくらいとしあき)
1952年生まれ。東京都出身。歴史家、エッセイスト。1975年、國學院大學文学部史学科卒業。広告会社でコピーライターとして雑誌、新聞、CM等の広告制作に長く携わり、その後フリーとして独立。不惑を間近に、英国史の勉学を深めたいという気持ちを抑えがたく、猛烈に英語の勉強を開始。家族を連れて、長州の伊藤博文や井上馨、また夏目漱石らが留学した日本の近代と所縁の深い英国ロンドン大学ユニバシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)の史学科大学院中世学専攻修士課程(M.A.in Medieval Studies)に入学。1997年、同課程を修了。新著は『物語 ウェールズ抗戦史 ケルトの民とアーサー王伝説 』(集英社新書)。他の主なる著書に『消えたイングランド王国 』『イングランド王国と闘った男―ジェラルド・オブ・ウェールズの時代 』『イングランド王国前史―アングロサクソン七王国物語 』『英語は40歳を過ぎてから―インターネット時代対応』『僕のロンドン―家族みんなで英国留学 奮闘篇』などがある。著者のプロフィール写真の撮影は、著者夫人で料理研究家の桜井昌代さん。