《「気持ち悪い」の声にも負けず》90代のチアリーダー 60代でチームを結成してミニスカートで踊り続けた「目的や志があったわけではなく、ただ楽しかった」
平均年齢67歳を超える高齢者限定のチアダンスチーム「ジャパンポンポン」を立ち上げた滝野文恵さん(94歳)。戦中の苦難の時代を乗り越え、50代で夫との別居を決意して単身アメリカへ留学。帰国後の60代でシニアチアに出会い、周囲からの「いい年して」という冷ややかな声にも負けず、92歳までミニスカートで踊り続けてきた。年齢や常識にとらわれず、自分の心に従って挑戦を続ける滝野さんに、人生を切り拓くポジティブな生き方の秘訣を聞いた。【全3回の第1回】
病弱で人見知りだった少女時代。親に勧められた進学が人生の転機に
――滝野さんの子供時代について教えてください。
滝野さん:4人きょうだいで、私と弟は広島で生まれました。生後2、3か月の時に兄と一緒に肺炎になり、東京で開業医をしていた叔父が看病に来てくれたのですが、「2人とも助けるのは無理だから、この子(滝野さん)はあきらめろ」と言っていたそうです。それが心理的に影響したのか、ものすごく人見知りで、食べ物の好き嫌いも激しく、ひと言で言えば「嫌なガキ」でした(笑い)。
――戦時中から戦後にかけては、どのような学生時代を過ごされたのでしょうか?
滝野さん:戦争が始まり、家族で長野に疎開してからは、勉強どころではなく工場で飛行機の部品を作っていました。戦後、これでもう勉強はおしまいと思っていたら、両親に何とか進学しろと強力に説得されまして。仕方なく入った専門学校が短大になり、そこで友人に乗馬に連れて行ってもらったのが大きな転機でした。これだ!と夢中になり、乗馬部のある関西学院大学へ編入したんです。大学卒業後にはアメリカ留学のチャンスにも恵まれました。両親にすすめられていなかったら、人生はまったく変わっていたでしょうね。
――人見知りでありながら、積極的な性格も感じられますね。
滝野さん:自分ではあまり表に出していなかったと思いますが、「やりたい」という気持ちは人一倍強かったみたいです。小学3年生のとき、泳げないのにプールに飛び込んで沈んだり、お正月の書き初めで「やりたい人!」と聞かれたら、上手でもないのに真っ先に手を挙げたり。何でもやりたがる子供だったと思います。
「ママ、1人になりたい」。53歳で家族と離れ、単身アメリカの大学へ
――25歳で結婚し、専業主婦を経て、53歳で再びアメリカのテキサス大学に留学されます。どのような経緯があったのでしょうか?
滝野さん:結婚生活がうまくいってませんでした。52歳の時に家を出て一人暮らしを始めました。そのときに「先の人生、年を取ったらどうなるんだろう」と考えていたところ、留学時代の友人から「老年学」という学問を学んでいると手紙をもらったんです。老年学を学べば、自分もうまく老後を過ごせるんじゃないかと短絡的に考えて、留学を決意しました。
――お子さんたちは成人されていたと思いますが、家族の反応はどうでしたか?
滝野さん:家を出るときは、やはり覚悟がいりました。ある日曜日、家族の前で「ママ、1人になりたいんだ」と伝えたんです。夫は怒りましたが、子供たちは「いいじゃないか、ママが1人になりたいなら、させてあげれば」と背中を押してくれました。夫婦がうまくいっていないことを、一緒に暮らしている子供たちは分かっていたんでしょうね。応援に回ってくれたので、スムーズに家を出ることができました。アメリカに渡り、最初は聴講生としてただ授業を聞くだけのつもりだったのですが、周りに「簡単に学位取れるよ」とそそのかされて、結局3年半ほど通って学位を取りました。
「いい年をして」という冷ややかな目も。60代でシニアチアチームを結成
――57歳で帰国、その後どのようにして「ジャパンポンポン」を結成されたのですか?
滝野さん:帰国してからは、母校で老年学を広めようとしたものの断られ、特に何かをしようという目的もなく、父が遺した会社を手伝いながら過ごしていました。そして1995年、62歳の時です。たまたま読んだ本に、アメリカの「サンシティポンズ」という平均年齢74歳のシニアチアリーディングチームのことが書かれていたんです。
年だからできないことはないと思っていて、実行してきたつもりでしたが、お年寄りがチアリーダーをするなんて夢にも思いませんでした。「面白い。日本で誰もやっていないなら、私がやろう!」と単純に思って、アメリカのチアリーダー代表と手紙でやり取りを始め、1996年の1月にチームを立ち上げました。
――最初はどのように練習を進めたのでしょうか?
滝野さん:10人ほど友達を集めて、サンシティポンズのリーダーが送ってくれた写真を見せながら「こういうのやりませんか」と呼びかけたら、物好きが5人集まりました。メンバーの一人が青山学院大学出身だったこともあり、その足で近くにあった渋谷区の青山キャンパスに行って、バトンサークルの学生さん、たまたま当時のキャプテンに「チアを教えてくれませんか」とお願いしたんです。青山キャンパスにはチアサークルがなかったのですが、チアもバトンも同じだろうという、いい加減な発想で(笑い)。
快くコーチを引き受けてくれたのですが、最初は全然覚えられなくて。振り付けを教わっても、次の週には全員すっかり忘れている。そんなことを繰り返すものだから、1年間でたった1曲、3、4分のダンスを仕上げるのがやっとでした。
――シニアがミニスカートで踊ることへの周囲の反応はいかがでしたか?
滝野さん:最初は友達にも、チアをやっているとは言えませんでした。親戚にも「気持ち悪い」と不評でしたね。最初の4年間は辞める人と入る人の繰り返しで、メンバーが7人から増えませんでした。でも、たまたま雑誌に取り上げられてから入会する人が増え、多いときで27、8人のチームになりました。
――92歳で引退するまで、28年続けられた原動力は何ですか?
滝野さん:目的や志があったわけではなく、ただ楽しかったんです。週に1回、決まった日に家を出て、仲間と集まって体を動かす。それが何よりの励みになりました。学生さんたちの発表会にゲストで出させてもらって、短い曲を披露するのも楽しかったですしね。アグレッシブなダンスをしてミニスカートをはくことで、若返った気分になっていたのかもしれません。誰に何と言われようと自分たちが楽しいと思うことを続けてきた結果が、今のジャパンポンポンにつながっているのだと思います。
◆ジャパンポンポン創設者・滝野文恵
たきの・ふみえ/1932年1月15日、広島県生まれ。大学卒業後、アメリカ留学を経て結婚し、一男一女を育てる。53歳で再びアメリカへ渡り、ノーステキサス大学で老年学修士号を取得。帰国後の1996年、63歳でシニアチアダンスチーム「ジャパンポンポン」を設立。代表として28年間にわたりチームを牽引し、各種メディアで注目を集める。2024年3月、92歳で惜しまれつつ現役を引退した。著書に『女53歳からのアメリカ留学』(ミネルバ書房)、『85歳のチアリーダー』(扶桑社)などがある。
撮影/小山志麻 取材・文/小山内麗香
