兄がボケました~若年性認知症の家族との暮らし 【第6回 今年は何年ですか?】
若年性認知症の兄と2人暮らし中のライター・ツガエマナミコさんが、兄との日々を綴る連載エッセイ。兄の認知症が発覚した3年前にさかのぼり、当時の様子を振り返ります。「明るく、時にシュールに」、でも前向きに認知症を考えます。
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認知症テスト
大学病院、メンタルヘルス科の初診は、何時間も待たされ、苛立ちと腹ペコのピークにやっと順番が回ってきました。診察の主な内容は生活でどんな症状が見られ、どんな支障があるかといった問診と、認知症テスト、MRIなどの検査予約でした。
問診での兄の受け答えは「別に困ったことはありません。自分としては普通なんですけど」と、なにも異常を感じていない様子でした。わたくしが補足で、無断欠勤したことや会社の先輩から聞いた話、住宅ローン事件のことなどをすると兄は「え?そうなの?」という反応を示し、そのあとに行われた認知症テストは痛々しいものでした。
問いは、例えば「今は何年ですか」とか「ここは何地方ですか?」というあまりに簡単すぎて逆に戸惑うようなものから「100から7を順番に引いていってください」というわたくしでも難しいものまで、約10問ぐらいでしょうか。ほぼすべての答えに自信がなく「〇〇?」という疑問形回答でした。
30点満点で当たり前といわれるものですが、兄は25点だったと記憶しています。しかも先生が軽く誘導した正解も含めてです。100から7を引いていくのはほぼできていたので逆に驚きましたが、3つの単語を覚えて、別の問いに答えたあとに「さっき覚えた3つの単語はなんでしたっけ?」という問いには答えられませんでした。
何よりわたくしが一番びっくりしたのは今が何年か、さんざん答えて当たらなかったことです。「こんなにわからないんだ」と改めて病気の重さを知りました。
それから3日後に脳波とアイソトープ検査、1か月以上先にMRI検査をしました。
結果は、ものの見事にアルツハイマー型認知症でした。脳の記憶をつかさどっている海馬という部分に萎縮が見られ、しかも萎縮の割合が4段階で最高とのこと。その割にはしっかりしているのではないかと勝手に兄を見直したのですが、担当医には「残念ながら現在の医学では治りません」と言われました。薬は進行を少しでも遅らせるためだけのもので、その効果も人によってまちまちとのことでした。
兄が落ち込むのではないかと心配しましたが、母も認知症だったので「しょうがない、親子だから」と笑っていました。精いっぱいの強がりだったとは思いますが、根が明るい人なので救われました。今でも元気ぶって明るいのは主に兄の方で、わたくしは苦笑いか仏頂面で応戦するというあり様。「あんたは呑気でいいね」と悪態をつきたくなる未熟な修行僧でございます。
飲んでいる薬は「アリセプト5㎎」。認知症の代表的なお薬です。お腹がゆるくなったり、気分が悪くなったりもないようで、この3年間、1日1錠飲み続けています。
それにしても大学病院というところは、なんであんなに待ち時間が長いのでしょう。予約時間などあってないようなもので正常な人間でも気が変になりそうです。
当時は家に帰ると母のベッドからお皿が落ちて割れていたり、こぼれないはずのコップの蓋の隙間からお茶が漏れてベッドが濡れていたりして、なんともやりきれない気持ちになったものです。
それでも「仕事」という大義名分で外出をし、部屋にこもって原稿を書くことができたのは救いでした。あの頃、わたくしは人生で一番アドレナリンを放出していたのではないでしょうか。「よくやった」と褒めてあげたい気持ちです。
つづく…(次回は9月19日公開予定です)
文/ツガエマナミコ
職業ライター。女性56才。両親と独身の兄妹が、5年前にそれぞれの住処を処分して再集合。再び家族でマンション生活を始めたが父が死去、母の認知症が進み、兄妹で介護をしながら暮らしていたが、母も死去。そのころ、兄の若年性認知症がわかる(当時57才、現60才)。現在、兄は仕事をしながら通院中だが、病院への付き添いは筆者。
イラスト/なとみみわ