永六輔さんの「魔法の言葉」 ”本当の姿”追った孫が解説
机を取り囲むように並ぶ本棚。そこにはさまざまな書物や資料があふれんばかりに詰め込まれている。ここは2016年7月に亡くなった永六輔さん(享年83)の書斎である。
「ここがいちばん、祖父を感じる場所。まずびっくりするのははがきの多さですよね。手紙は祖父を象徴するもの。祖父はぼくが小さい頃からここで、近寄りがたい雰囲気で手紙を書いていた。それは亡くなる直前まで続け、1日100通ぐらい、ファンや一般のかたに返事を出していた。今ぼくの本を読んで、祖父と交流があったというかたから『永さんと文通させていただいていました』とお手紙をいただくことも多い。ぼくもそういったかたがたにお返事を出しているのですが、これがなかなか大変で…(苦笑)。祖父はぼくの10倍以上の数を何十年と繰り返していたんだからかないません」
祖父・永六輔さんについてこう語るのは孫の永拓実さん(20才)。拓実さんは永さんの次女で、元フジテレビアナウンサーの永麻理さん(56才)の息子で、現在は東京大学に在学中である。
拓実さんは永さんの死後、「自分の知らなかった祖父の本当の姿」を知るべく、永さんと親交が深かったタモリ(72才)、黒柳徹子(84才)、久米宏(73才)らを訪ね、取材で集めた永さんの言葉を『大遺言:祖父・永六輔の今を生きる36の言葉』(小学館)という一冊の本にまとめた。
取材を通して、拓実さんが驚いたのは「祖父はどれだけたくさんの顔を持っていたんだ」ということだという。
「徹子さんは『カッコいい』、タモリさんは『博識』、久米さんは『怖い』と、みなさんが語る祖父のイメージはバラバラ。これだけ調べてもいまだに『永六輔は何者か?』という答えにたどり着けない。でも、1つの枠に収まらないからこそ、祖父は偉大なんだと思います」
作詞家として『上を向いて歩こう』『見上げてごらん夜の星を』など、数々の名曲を生み出した永さんだが著名人となってもスタンスを変えることはなかったという。
「祖父は有名になっても、絶対に偉ぶることはなかった。立場の弱い人に寄り添い、同じ立場から発信するということを生涯貫き通した。だからこそ、祖父の言葉は多くの人々の胸を打ち、力を与えたんだと思います」
今回、そんな永さんの“魔法の言葉”を拓実さん本人が解説してくれた。
「生きているだけで面白い。今が一番楽しく、喧嘩しているくらいが一番幸せ」
1960年代、若かりし日の祖父と黒柳徹子さん、故・渥美清さん(享年68)はまだお金もなく、外食する機会も少なかった。そんな3人で中華料理店に行った際、エビチリを注文すると取り合いに。「おれが稼ぐようになったら腹一杯食べさせてやる」と言う渥美さんに祖父が返した言葉です。
「知らないのは恥じゃない。知っている振りをするのが恥だ」
ラジオの世界で生きていた作詞の「素人」だった祖父は、「こんにちは」などの日常会話を使った詞を書いた。もし背伸びして「知っている振り」をしていたら、名曲の数々は生まれていなかったかもしれません。
「新しいものを生むためには、危険なものにも目を向けよう」
危険な芸風だったタモリさんをNHKの番組に抜擢したのは祖父。タモリさんは「永さんは私の奇妙さに目をつけて使ってくれた。世の中や文化を変える人は軽佻浮薄なくらいでいいって考えていたんじゃないかな」と。
「生きているということは、誰かに借りを作ること。生きていくということは、その借りを返してゆくこと」
小学生の頃、中華料理店に行ったときのこと。トイレの場所がわからずに迷っているぼくに偶然居合わせた嵐の大野智さん(36才)が「こっちだよ」と連れて行ってくれました。今でも思い出すと興奮しますが、それ以来、生前、祖父が繰り返し言っていたこの言葉を思い出し、困っている人がいれば声をかけています。
「職業に貴賤はないが、生き方に貴賤はある」
デビュー前、清水ミチコさんは祖父に「芸はプロだけど生き方がアマチュア」と指摘されたそうです。1つの仕事を極めても、予期せず変わることもある。でも自分の生き方は「一生もの」ということを言いたかったんだと思います。
「人間関係に順位をつけない。損得を考えずに人と付き合おう」
さだまさしさんは祖父の人間関係を「他人とのつきあいの距離感を変えない人だった」と分析しています。だからこそ祖父は“愛された”のだと思います。
「誰も反対しないようなことをやっても、誰も何かやったと思わない」
ぼくのいちばん好きな言葉です。晩年祖父はパーキンソン病を患い、手足が震え、ろれつも回らなくなった。世間からは「ラジオを引退すべき」という声も上がりましたが、祖父は自分の無様な姿を見せることで、多くの人々を勇気づけようとした。批判を乗り越えることにこそ価値があると教えられました。
「他人と比べても仕方がない。他人のことが気になるのは、自分が一生懸命やっていないからだ」
16年間祖父についたマネジャー曰く、「他人の悪口を一切言わなかった」という祖父。遺されたメモの中に「悪口を言わない程度の忙しさは必要」という言葉がありました。他人を悪く言いたくなるとき、それは自分がやるべきことができていないと受け止めてみようと思うようにしています。
「『他人のために』は目立たないよう引いてやる。その含羞こそ粋」
TBS入社直後、病気を患い失意の日々を送っていた久米宏さんが祖父のラジオに抜擢された。祖父の死後、久米さんは番組のプロデューサーに起用理由を尋ねると「ぼくが選んだんじゃなくて、永さんが『この子おもしろいから』と推薦した」と打ち明けられたそうです。他人のために何かをしても絶対に口外しなかった。それが祖父の「粋」だったのでしょう。
「聞くことは話すことよりずっと難しい」
「しゃべり」が芸の祖父でしたが、「聞くこと」も大切にしていた。内容ある会話をしようとしたら、聞く力を鍛えるしかないと考えた。
「自分を叱ってくれる人は探してでも見つけよう」
久米宏さんは祖父を「怖い先生」と振り返ります。祖父が久米さんに厳しくしたのは目をかけていたから。今の時代、叱ってくれる人はなかなかいない。祖父という厳しい存在がいた久米さんがうらやましい。
最後に拓実さんはこう笑う。
「そういう人だからぼくが本を出したことは『ほっといてくれ』って、今頃怒っていると思います(笑い)。でも、『言葉の天才』といわれた祖父を多少なりとも受け継いで、言葉で表現する仕事にかかわっていきたいと思っています」
さあ、上を向いて歩こう。
※女性セブン2017年9月28日号
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